2020年08月11日

「生徒」から「学生」に脱皮できないのは若者のせい?

 コロナ禍での教育実践をメインテーマで7月25日の例会が行われたが、期せずして「学生」と「生徒」の区分について盛り上がってしまった。本来の趣旨から外れたテーマであったが、参加者の反応に少々違和感を覚えた。そこで、ざっと漢字の成り立ちを調べてコメントさせてもらったが、すかさず真義先生から『これをテーマに裏巻頭言を書くように!』ときた。相も変らぬ無茶振りだが、今号の裏巻頭言のネタをどうしようかと正直悩んでいた状況にあってはまさに渡りに船。有難く頂戴して、今号の裏巻頭言のネタに代えさせていただくことにする。

 ある言葉の意味やニュアンスを把握する際に国語辞典を調べる(検索する)のが普通だが、本当を言えば、特にニュアンスを把握するのには適切な手続きではない。なぜなら、国語辞典は現在の活用について網羅したものであって、言葉の持つニュアンスが日々変化する中にあっては、根源に潜むニュアンスを逃す可能性があるからだ。そこで、日本語の場合は漢和辞典で漢字の成り立ちを調べることをお薦めする。その方がより細かいニュアンスを把握することができるはずである(ちなみに、英語などについてはギリシア語やラテン語の意味を探ってみると意外な発見があるはず)。

 では早速調べてみよう。まずは「生徒」「学生」に共通する「生」である。これは地面から草木が芽を出す様子を表した象形文字が起源で、これから大きく成長するという意味では【未熟】という意味もある。次に、生徒の「徒」であるが、これは【道を行く時に乗り物を使わず土を踏んで歩く】が本来の意味である。今の状況から考えるに、どこかに行く時に徒歩で行くほど時間を要し且つしんどい事はない。だが、そうした一種徒労とも思しき行動を継続する(道を歩くというからにはその先に目的地があるはず。歩みを続けなければ到達できないのは当然)ことで未熟な者が成長する、そういうニュアンスが「生徒」に含まれていると思われる。最後に、学生の「学」であるが、これは【教える者が学ぶ者を向上させる交わる場である建物】が本来の意味である。

 これで分かるだろう。生徒と学生の決定的な違い、それは後者が学ぶ者にとって「教える者」という他者が明示されているのに対して、前者にはそれがない。無論、生徒が道を歩くのには他者の存在・支援なしには実際には無理である。しかし、自らの足で歩み続けることと他者と交わるのは決定的に違う。その意味で、学生とは他者と交わって数多の経験を積み重ねることで成長する存在、こういうニュアンスがあると思われる。それともう1つ考えられるニュアンスは、教える者と学ぶ者が特定の場所に集う存在、こうとも考えることもできよう。コロナ禍で考えて引き受けなければならないリスクは爆発的に増えているが、それでも、教育現場において他者と顔を合わせる授業形態を指向し続ける理由もここにある。ここで重要なことは、生徒と学生の違いを説明するのに学力の3要素(知識・思考力等・人間性等)は関係ないということである。ここは強調しておきたい。

 ところで、生徒・学生の話で思い出した事がある。私の大学入学直後の話。同期と先輩達との談笑の中で、私は自らを「生徒」と言ってしまった。だが、周囲はすべて「学生」と言っていた。これに私は強烈な恥ずかしさを覚え、それ以降自らを学生と言うようになった。こうした経緯で私は「学生」を自覚するようになったが、例会で上がった声と同様、今の大学生は自らを「生徒」と連呼する状況が私の職場にも蔓延している。そして、一部教職員は率先して(?)学生を生徒と言っている。ただ、自らを生徒と言う学生を『未熟になった』と断言してしまうのは少々違うと思う。元来学生も生徒も未熟な存在なのだから、上の発現は今の学生像を的確に表現していないと感じざるを得ない。

 ではどう表現すればいいのか? 今の学生をどういう目線で眺めるのかによって表し方は異なるのは当然だが、私ならば「環境変化に対して鈍感になった」と言う。この鈍感さには少なくとも2つの側面から考えることができよう。1つ目は、高校から大学に環境が変わったことでできる事とやるべき事の本質が変わるはずである。それに気付かない「鈍感さ」である。2つ目は、まさに「学生」と「生徒」が飛び交う空間にあってその言葉遣いの違いに「なぜ?」と気付こうとしない「鈍感さ」である。

 結局のところ、若者が未熟なステージから成熟のステージへ移行するには、成長過程においてどれだけの「気付き」を掴むかである。ただ、大人は得てして気付き方、すなわち、気付きのノウハウを伝えようとしがちである。当然だが、ノウハウを伝えるならばそれを活かす状況も提供しなければならない。では、今の教育現場で気付きを発見できる状況になっているのだろうか? その意味では、われわれ教育関係者ができる事の基本は若者に気づきを与えるための「刺激」を与え続けることである。そのチャンネルは授業を通じた正課活動や部活・留学などの課外活動はもちろんのこと、キャンパスを構成する構築物等そうで、これらが折り重なって多くの気付きを与えてくれる。こうした観点で、今後の例会で行われるファシリティ・マネジメントの話を聞くと多くの気付きがあるはずである。

(中村 勝之)

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あせらず、あわてず、あきらめず

 大阪府知事「うそみたいな本当の話」とうがい薬のすすめ発言を聞いて、2019年2月8日朝日新聞・天声人語『映画「がんになる前に知っておくこと」』を思い出した。

 この映画を企画した上原拓治さん(45)は、3年前がんで義妹を失った。自分には無縁な病気、そう思うからこそ不安に陥る。「がんが疑われて動揺しない人はいません」。がんについて一からわかる映画を目指し、三宅流監督(44)と共に医師や看護師、患者ら15人を取材。病気と向き合う手立てを丹念に拾った。

 助からない病の代表では?「がんイコール死というのは30年も前の古いイメージ。今はがんと共存できる時代です」。専門医が力を込める。怖くてしかたがない時は?「患者の恐怖を医学は解決できません」。医師が限界を率直に語る。何より頼りになるのは経験者の生の声だという。患者たちはピア(仲間)サポートの部屋で不安をはき出す。治療に納得できない場合は?「医者はどうしても生存率にこだわる。ですが優先されるべきは患者の生きがい」。自身もがんと闘う医師が答える。好例として挙げられたのは舌がんの落語家。「高座に上がりたいから舌は切らない」と外科手術を断った。

 あせらず、あわてず、あきらめず。経営やスポーツの哲学としてしばしば聞く心構えがそのまま当てはまるのではないか。生涯で2人に1人ががんを経験する時代、この病気と付き合う「知恵袋」のような映画であるとまとめていた。

 そして天声人語の左上にある「折々のことば」では、元CM制作者の漫画家・エッセイストの本田亮著『転覆家族が行く!!死ぬとき後悔しないための家族&仕事術』(フレーベル館)から『もう少し「金」曜日を減らし意識して自然と触れ合ったほうがいいんじゃないか』を紹介していた。激務が続く中、週末よく家族とキャンプに出かけある日ふと思う。曜日の名はもっと自然と触れ合えと伝えている。月を見る、火を熾す、水と遊ぶ、木に触れる、土を踏む、陽光を浴びる。満員電車で鉄筋のビルに通い、プラスチックのパソコンを操作して「金」を稼ぐばかりだと、心が乾いてしまうよと。

(宮本 輝)

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