2021年01月14日

燻して、練って、溶かして、流し込んで

 「人を育てる」こう書くと簡単だが、実際は七転八倒の連続である(そうでなければ、FMICSがここまで存続しない)。

 ところで、皆さんは「人を育てる」ことを的確に表現する熟語は何かと考えた事があるだろうか? ベタに考えれば「教育」や「育成」という熟語が思いつくだろう。しかし、個人的にはこうした熟語は好きになれない。育てられた事の成果が、本人の自覚はもちろんのこと第三者にも観察されるのに相当な時間を要するのを含んだニュアンスになっていないからである。個人的には、人を育てる事を表す熟語として「薫陶」や「陶冶」を意識的に使っている。こちらの方が長時間かけて人を育てるというニュアンスを的確に表現していると思うからである。

 たとえば薫陶。これは陶器を作る主原料である土に香の薫りを染み込ませ、それを練って焼き上げる様から、「人に対して徳を染み込むように感化させ、人格者として育て上げる」というニュアンスを表現する熟語となった。現代の陶芸作家も(香の香りを染み込ませてはいないようだが)土を熟成させ、焼き上げた作品を半年ほど野ざらしにするそうだ。そうすることで茶室にふさわしい風合いが出るようである。

 本来、薫陶は「〜を受けた」と表現するように受け身で使われるのが普通である。つまり、これは教えを受ける側から捉えられた熟語であるのだが、教えられた内容を頭で理解しても体中に染み込ませるには相当な時間を要するという事を理解しておいた方がいい。頭で理解して全て分かった積もりで身体(≒行動)での表現まで至らなければ、「薫陶を受けた」ことにはならないのである。一方、教えを与える側から言えば、徳を積んでいることが絶対(に近い)条件になることは容易に想像つく。とはいえ、どれがいい薫り(≒徳)を出す香材(≒人材)なのかは事前に完璧に把握できるものではない。だから、徳をさほど積んでいない者から教えを受けると、それが染み込んで徳を積まない人材が育ってしまう。無論、さして徳を積んでいない者から薫陶を受けても絶世の逸材に育ち上がる可能性もあるのだから、かくも人に何かを教えるというのは難しくもあり、面白いものである。

 これに対して陶冶。これは本来陶器や鋳物を作る事を表しているが、これらがいずれも素材から成形される行為なので、「人の性質や能力を円満に育て上げる」というニュアンスがある。円満に人を育て上げるとはいえ、「円満」にはトラブルなく…みたいなニュアンスはない印象である。陶冶の「冶」には「練り上げる」という意味があるし、鍛冶師が作る刃物は高温状態と低温状態を繰り返した上で鉄を叩いて強さと切れ味を実現させていく。ここから分かるのは、質の高い陶器や鋳物(≒人材)を育て上げるには素材(≒若者)を様々な条件下に置かなければならないということである。そういえば、讃岐うどんはコシのある太麺で有名だが、昔は足で踏んでコシを出していたそうである。今では?の大量生産に対応するため機械で練っているが、地元の人に言わせれば、足で出したコシと機械で出したそれとは違うようである。また、ラーメン(拉麺)の「拉」は「引き延ばす」という意味らしい。

 話は逸れたが、人がそれなりに育つというのは長大な時間を要するのとともに、様々な境遇に置かれたりプレッシャーを受けなければならない。大人が若者に優しく接するのも厳しく接するのも、彼らを鍛え上げて質の高い人材に仕上げるためである。若者よ、周囲から叱責されて凹んでいる暇などない。様々な人達との触れ合いの中で燻され、練られ、溶かされ、(型に)流し込まれたらいい。そうやって人は育つのである。

(中村 勝之)

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「競技は先生」ともに学び楽しむ

 年末年始は自宅で巣ごもり生活、年始のスポーツはテレビ越しに応援しながら日本経済新聞「SPORTデモクラシー」(2020年11月1日)での安田秀一氏の記事を振り返った。

 アルペンスキーの皆川賢太郎さん、競泳の松田丈志さんと「子どもたちへのスポーツの指導法」の話題で盛り上がったとのこと。日本ではなぜ最初にバタ足ばっかりで苦しい思いをさせるのか、水泳嫌いになるという問いに松田氏は「そこは僕にも分からないが、まず苦労してそこからはい上がってこいよ、っていう日本あるあるじゃないですか。」そして米国では背泳ぎから入ることを教えてくれた。「顔を水につけないで水に慣れさせること。それから浮く感覚を身につけて楽しく泳がせるんです」。皆川さんも苦笑しながら「本当に日本あるあるですよね。米国ではブーツは大人が履かせてくれて、少しスキーに慣れさせたらすぐにリフト乗って、滑る楽しさを体験させます」。

 「スポーツ」は英語の名詞。「PLAY」(遊ぶ)という意味の動詞を用いて文章となる。つまり「楽しむ」ことを目的とした活動がスポーツ。しかし日本では楽しむどころか苦労を伴う「修行」になってしまう。スポーツは教育ではない。リーダーシップや協調性、戦略的思考など多くのことをスポーツを通じて学べるが、それはスポーツの目的ではなく副産物である。それを手にするためには、どんな競技でも最初は「楽しい」という「きっかけ」が不可欠である。

 安田氏は28歳の頃、アメリカンフットボールの「NFLヨーロッパ」のチームにコーチとして帯同する幸運に恵まれた。そのときに出会ったあるベテランコーチの言葉が今も忘れられないという。いつも穏やかで声を荒げることなどなく、ニコニコしている人。そのコーチに質問をした。「なぜ叱ったりしないのですか?」彼はこんな話をしてくれた。「私も選手も“フットボールという先生”から共に学んでいる生徒なんだ。マネジャーも、ビデオ係もトレーナーも、君も、僕も、役割が違うだけで、みんな生徒なんだ。上も下もない。僕は40年以上コーチをしているけど、今でもフットボール先生から学ぶことばっかりだよ。こんな年になっても成長させてもらえるなんて、最高の仕事だろ」。

 この教えに安田氏は心の底から共感した。これこそスポーツの真の価値だと感じた。それぞれの立場でスポーツから学び、みんながそれぞれの成長を楽しむ。失敗も敗北も学びであり、学びは成長につながり、成長は喜びをつくり出す。会社では「仕事が先生」、子育てでは「いい人生が先生」である。スポーツの指導現場は、その意味ではとても分かりやすく、身近な実践の場になるのではないか。「スポーツが先生」で、監督もコーチも選手も父母も、みんなそこで学ぶ生徒。成長という「喜びの果実」を手に入れる方法をみんなで考え、みんなで勝ち取っていく。それこそが「スポーツの醍醐味」だと思うと締めくくった。

(宮本 輝)

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