いきなりだが、若者には解説が必要な格言(?)から始めてみよう。まずは1つ目。
「20歳までに赤くならない奴はバカだ。だが、30歳で赤い奴はもっとバカだ」
ここで言う「赤」とは共産主義(少し広く捉えて社会主義)的発想に思考が染まる事で、過激な行動をしてしまいがちである事の比喩表現である。字面はともかく、所謂思春期は自分の認識できる環境が急激に広がり、縁遠い境遇に対する理不尽さと、それに対する「怒り」に気づきやすいタイミングである。そこに気づけない人間は相当鈍感だという意味で「バカ」と形容する。ただ、高校卒業後の様々な経験を経て思春期に感じていた理不尽さが自らの知識不足に根ざした事が分かってくると、当時ほど強烈な怒りを覚えなくなる。これをもって「かしこまった」と言う(やや)ネガティブな評価をする向きも可能だが、人間として成熟した証とも評価できる。大半の人間は30歳にもなると後者の向きに自然となるので、思春期に抱いた感情を保持し続ける状況を好ましくないと断じるのが上の格言である。
次に2つ目。
「やる気のある無能を組織に置いてはならない」
これは、(本来のニュアンスはもっと過激なのだが)ナポレオンが似たニュアンスを語った事で有名で、直接的にはドイツの軍人ハンス・フォン・ゼークトが語ったものである。軍隊と言うある種特殊な組織に於いて、規律ある行動を維持するためには行動力や戦略思考に長けているという意味での「有能」さが大事なのであって、任務に対する「やる気」の有無は本質的ではない。むしろ、「やる気」だけを顕示する士官は規律行動の維持困難に陥るどころか、組織崩壊に導いてしまう。最悪の事態を回避するための最善の手段、これが上の格言に凝縮されている。
今回の裏巻頭言に当たってなぜ上記2つの格言を持ち出したのかというと、とりわけ若者に対して、格言の裏に潜む罠にはまる可能性を今回の例会の流れが秘めていた事と、今回の例会のテーマの1つである「高大接続へのモヤモヤ」に対する解消のヒントが隠されているからだ。
後述する様に、人が本気で考えるきっかけとして作用する要素の1つが(あらゆる場面における)理不尽さに対する「怒り」である。無論、怒りばかりではない。現状に対する「不足」感、「不平」「不満」、(欲求への)「渇望」感、様々な表現が可能だが、大事なことは何がしかの事象に対して自分の感情が揺さぶられなければならないという事である。もっと言えば、感情の揺さぶりは自己正当化するためのポジティブなものではなく、自己否定に向かい兼ねないネガティブなものであった方がいい。教育の観点からはある種賭けになる部分ではあるが、『エヴァンゲリオン』の主人公の如く、少なくとも「ぼく、ここにいていいんだ…」と言わせない事が重要である。相手の感情をネガティブに揺さぶらない、マイルドに言えば居心地の悪さを感じさせないという意味では、相手を無意味に褒めるのもいただけない。凡庸な人間に対して褒める事は彼等の「やる気」を無駄に刺激する事はあっても、有能到達へのきっかけになる事はほぼ皆無なのだから。
こう断言すれば各所から批判が殺到するのは間違いないが、正直な話、中等教育で実践される「考える教育」は早晩テクニックが生み出されて有名無実化するだろう。これはある意味仕方ない。中等教育までで実践される「考える教育」のための素材は数種類のパターに分類可能であるとともに、中等教育までの教師は教育活動の方法論は理解していても、教科内容の方法論まで十分理解しているとは言えないからである(とりわけ地歴科、公民科、数学科で顕著)。かといって、高等教育に携わる者が講義内容の方法論を熟知しているのも稀で、中等教育での悩みの一端を理解しようとする感受性の存在すら怪しい。その意味で、今回の例会のテーマである高校接続を考えるに当たって重要な論点は高校の「何」と大学の「何」をどう接続するのかと言うことである。ここに対する明瞭な解答を用意できない限り、いつまで経っても高大接続の「モヤモヤ」は本質的に解消されないだろう。
ならば、その「何」とは何なのか。私なりの解答は「考える力」であるという事を例会後の茶話会で提言させてもらった。教育学的発想から言えば「考える力」をどう測定するのかが大きな問題となるのであろうが、ここではそれを脇に置いておく。とりわけ今回の例会で「モヤモヤ」を解消できなかった者にとっては、どんな条件が重なると「考える力」を「身に付ける」きっかけになるのかを知りたいはずだ。茶話会では3つの要素を提示させてもらった。1つ目が先述の「怒り」に代表される感情の揺さぶりであって、(厳密なニュアンスは異なるが)FMICSの標語の1つであるPassionに通ずるものである。残り2つは中等教育までの「知識」と、高等教育で学ぶ「学問」である。今の中等教育までで伝達される知識の殆んどは各種学問領域から得られた知見の「つまみ食い」で構成される。言ってみれば、中等教育までの「つまみ食い」の内容の理屈を知るために提供される教授内容が高等教育の主戦場なのである。ここで大事なのは、高等教育で教授される内容が中等教育までの「知識」と質的に異なること、その理由が各種学問領域の発想方法や論理展開の「礼儀」が高等教育に散りばめられているからである。つまり、高大接続とは中等教育までの「知識」を念頭に置きつつ、各学問領域の「礼儀」を如何に身に付けさせるか、そのきっかけとしての接続であるべきだと言う事である。言葉として簡単に書いてしまっているが、これを実行に移すのは容易な事ではない。行動力を持続するための燃料として「怒り」などを挙げる事が出来るが、勿論、こうした事だけが燃料になる訳ではない。「知的好奇心」だって重要な燃料になるはずだ。
かなり長くなったが、昔の経済学の入門書の冒頭に結構な頻度で書かれていた格言、これで本欄を閉める事にしよう。
“Warm heart, cool head”(心は熱く、頭は冷静に)
(中村 勝之)
posted by fmics at 18:04
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巻頭言