2021年04月01日

踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆ならどっちを選ぶ?

 いきなりだが、若者には解説が必要な格言(?)から始めてみよう。まずは1つ目。
「20歳までに赤くならない奴はバカだ。だが、30歳で赤い奴はもっとバカだ」

 ここで言う「赤」とは共産主義(少し広く捉えて社会主義)的発想に思考が染まる事で、過激な行動をしてしまいがちである事の比喩表現である。字面はともかく、所謂思春期は自分の認識できる環境が急激に広がり、縁遠い境遇に対する理不尽さと、それに対する「怒り」に気づきやすいタイミングである。そこに気づけない人間は相当鈍感だという意味で「バカ」と形容する。ただ、高校卒業後の様々な経験を経て思春期に感じていた理不尽さが自らの知識不足に根ざした事が分かってくると、当時ほど強烈な怒りを覚えなくなる。これをもって「かしこまった」と言う(やや)ネガティブな評価をする向きも可能だが、人間として成熟した証とも評価できる。大半の人間は30歳にもなると後者の向きに自然となるので、思春期に抱いた感情を保持し続ける状況を好ましくないと断じるのが上の格言である。

 次に2つ目。
「やる気のある無能を組織に置いてはならない」

 これは、(本来のニュアンスはもっと過激なのだが)ナポレオンが似たニュアンスを語った事で有名で、直接的にはドイツの軍人ハンス・フォン・ゼークトが語ったものである。軍隊と言うある種特殊な組織に於いて、規律ある行動を維持するためには行動力や戦略思考に長けているという意味での「有能」さが大事なのであって、任務に対する「やる気」の有無は本質的ではない。むしろ、「やる気」だけを顕示する士官は規律行動の維持困難に陥るどころか、組織崩壊に導いてしまう。最悪の事態を回避するための最善の手段、これが上の格言に凝縮されている。

 今回の裏巻頭言に当たってなぜ上記2つの格言を持ち出したのかというと、とりわけ若者に対して、格言の裏に潜む罠にはまる可能性を今回の例会の流れが秘めていた事と、今回の例会のテーマの1つである「高大接続へのモヤモヤ」に対する解消のヒントが隠されているからだ。

 後述する様に、人が本気で考えるきっかけとして作用する要素の1つが(あらゆる場面における)理不尽さに対する「怒り」である。無論、怒りばかりではない。現状に対する「不足」感、「不平」「不満」、(欲求への)「渇望」感、様々な表現が可能だが、大事なことは何がしかの事象に対して自分の感情が揺さぶられなければならないという事である。もっと言えば、感情の揺さぶりは自己正当化するためのポジティブなものではなく、自己否定に向かい兼ねないネガティブなものであった方がいい。教育の観点からはある種賭けになる部分ではあるが、『エヴァンゲリオン』の主人公の如く、少なくとも「ぼく、ここにいていいんだ…」と言わせない事が重要である。相手の感情をネガティブに揺さぶらない、マイルドに言えば居心地の悪さを感じさせないという意味では、相手を無意味に褒めるのもいただけない。凡庸な人間に対して褒める事は彼等の「やる気」を無駄に刺激する事はあっても、有能到達へのきっかけになる事はほぼ皆無なのだから。

 こう断言すれば各所から批判が殺到するのは間違いないが、正直な話、中等教育で実践される「考える教育」は早晩テクニックが生み出されて有名無実化するだろう。これはある意味仕方ない。中等教育までで実践される「考える教育」のための素材は数種類のパターに分類可能であるとともに、中等教育までの教師は教育活動の方法論は理解していても、教科内容の方法論まで十分理解しているとは言えないからである(とりわけ地歴科、公民科、数学科で顕著)。かといって、高等教育に携わる者が講義内容の方法論を熟知しているのも稀で、中等教育での悩みの一端を理解しようとする感受性の存在すら怪しい。その意味で、今回の例会のテーマである高校接続を考えるに当たって重要な論点は高校の「何」と大学の「何」をどう接続するのかと言うことである。ここに対する明瞭な解答を用意できない限り、いつまで経っても高大接続の「モヤモヤ」は本質的に解消されないだろう。

 ならば、その「何」とは何なのか。私なりの解答は「考える力」であるという事を例会後の茶話会で提言させてもらった。教育学的発想から言えば「考える力」をどう測定するのかが大きな問題となるのであろうが、ここではそれを脇に置いておく。とりわけ今回の例会で「モヤモヤ」を解消できなかった者にとっては、どんな条件が重なると「考える力」を「身に付ける」きっかけになるのかを知りたいはずだ。茶話会では3つの要素を提示させてもらった。1つ目が先述の「怒り」に代表される感情の揺さぶりであって、(厳密なニュアンスは異なるが)FMICSの標語の1つであるPassionに通ずるものである。残り2つは中等教育までの「知識」と、高等教育で学ぶ「学問」である。今の中等教育までで伝達される知識の殆んどは各種学問領域から得られた知見の「つまみ食い」で構成される。言ってみれば、中等教育までの「つまみ食い」の内容の理屈を知るために提供される教授内容が高等教育の主戦場なのである。ここで大事なのは、高等教育で教授される内容が中等教育までの「知識」と質的に異なること、その理由が各種学問領域の発想方法や論理展開の「礼儀」が高等教育に散りばめられているからである。つまり、高大接続とは中等教育までの「知識」を念頭に置きつつ、各学問領域の「礼儀」を如何に身に付けさせるか、そのきっかけとしての接続であるべきだと言う事である。言葉として簡単に書いてしまっているが、これを実行に移すのは容易な事ではない。行動力を持続するための燃料として「怒り」などを挙げる事が出来るが、勿論、こうした事だけが燃料になる訳ではない。「知的好奇心」だって重要な燃料になるはずだ。

 かなり長くなったが、昔の経済学の入門書の冒頭に結構な頻度で書かれていた格言、これで本欄を閉める事にしよう。

 “Warm heart, cool head”(心は熱く、頭は冷静に)

(中村 勝之)

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チェーン店の挑戦、個人経営店の意識改革

 各飲食チェーン店の「徹底攻略」を指南する著作がありベテランの料理人でもある稲田俊輔氏、2021年3月6日朝日新聞「いま聞く」で久保田侑睴記者が飲食業界のコロナ再起のヒントに迫っていた。

 2019年の著書『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)で経営的な観点ではなく消費者目線でファミリーレストランやファストフードの魅力を語り、その一例としたのが「サイゼリヤ」(本社・埼玉県吉川市)。いわく「パスタやドリアは確かに安いが原価を計算するとちゃんと儲かるようにできている。でも生ハムやサラミは原価だけを考えるとずいぶん無理をしているように見える」と分析。「パスタやドリアでしっかり利益を出しているからこそ、高品質な前菜やワインを常識外れの価格で提供できる」。他に「マクドナルドの肉は本物志向」「ケンタッキーはご飯と味噌汁を付けて定食専門店を出すべき」「日高屋はビールの安いスタバ」など独自の視点で次々と斬っていく。

 なぜチェーン店に注目した本を出したのかの問いに「『しょせんチェーン店』という上から目線の評価が目立ちます。お金も時間もなくチェーン店で仕方なく食べているという人もいます。卑屈に背中を丸めていた人たちに私がどのようにチェーン店を徹底的に楽しみ尽くしているかを伝えようと思いました」。

 そんな時に出会ったのが当時サイゼリヤで提供されていた「粗挽きソーセージのグリル」。食卓でなじみのある燻製のソーセージではなく、イタリアで「サルシッチャ」と呼ばれる生ソーセージ。当時は専門店にしかないようなメニューが近くのファミレスにあったのだ。「サイゼリヤの人たちはイタリア料理が大好きで、マニアックなものをひそかにアピールしていると気付いたんです」。安くて親しみやすいメニューの中に通好みの一品を潜ませる。そんなチェーン店に自分との共通点を見つけた。サイゼリヤの広報担当者は「私たちが美味しいと思うものを提案していましたが、食通の方にそれを見つけて楽しんでいただけるのは販売者冥利に尽きる」という。

 一方で集いの場としての機能を担ってきた個人経営店、コロナ禍は長期化し依然厳しい状況。今後のカギは客側と店側の「意識改革」にあると訴え、「お一人様」の客に注目する。すでにその変化の兆しは現れていると語る。「『一人飲み』『お一人様』といった特集が雑誌でも組まれ、潜在的なニーズに世間が気付きつつあります」。チェーン店の挑戦や個人店の変革を受け入れ、面白がる。その独自の視点には、「食」を徹底的に楽しむヒントがあふれていると久保田記者。コロナ禍での大学の役割と機能の今後のカギに注目していきたい。

(宮本 輝)

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