- AI(人工知能)のキモは元データ収集のためのセンサーの精度と、演算のためのプログラミングにある。
- 上の話を人に当てはめると、そのキモは五感を磨くことである。
- 人の五感は(さまざまな原因で付着した)汚れを拭き取ることで復元でき、少し顔を上げるだけで膨大な情報が入ってくる。そこから大局観のきっかけが掴める。
大局観という言葉はその字義は明快であっても曖昧な捉え方をしがちなゆえ、変な話、言葉遊びに終わってしまう恐れがある。人を突き動かそうと意図された言葉は実際の行動に変換することで初めてその意味内容が実感レベルで認知される。言葉を行動に結び付けること、そういう思いを込めて発信したのが上記メッセージであった。
しかし、いざ始まってみると、私のわずかな思いなど瞬く間に吹き飛んでしまった。それぞれの立場で行動していることを語り、行動から集約したエッセンスを語り、刺激を受けた仲間たちがワチャワチャ語り合う。大局観はどこに消えた!? と思わんばかりの展開であった。あの会場の雰囲気、一言で表現すれば『寄せ鍋』に舌鼓を打っているかのようである。
会場で出会った全員が同じ職場で勤めていたらどれだけドキドキ・ワクワクして仕事ができるんだろう…。そう思いながらも、別な考えも頭をもたげる。どんな環境でも、それが持続すると「アグレッシブに動く」人と「様子見」な人、「無関心」な人にその役割が分離していく。しかも、人の組み合わせ方でも大きく様子が変わる。アグレッシブに動く人から見れば他の人たちの動きが緩慢に映り、腹を立てることがあるかもしれない。「人の努力の『いいとこ取り』だけしやがって!」と感じるかもしれない。逆に、様子見な人から見れば、アグレッシブな人が暑苦しくて仕方ないかもしれない。集団で生活するわれわれにあって、環境に合わせて役割が自然に分化するのは特性上仕方ない。だが、そこに対する判断の違いによってトラブルが発生してしまうのかもしれない。
とはいえ、かように厄介な存在を今後も続けていくしかないし、それがわれわれの使命でもある。そして、その中途中途で寄せ鍋を堪能する。これが生活の醍醐味なのかもしれない。
(中村 勝之)

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