さて、今回も真義先生から本欄のお題を頂戴した。それが「ひらめき」である。この言葉は例会後の茶話会(?)の席上で偶々出たもので、それを真義先生が確実に拾い上げつつ広げるだけ広げて、着地点が見出せそうなタイミングで「じゃぁ、かっちゃん。今回の裏巻頭言のネタはこれで」とのたまう真義先生。ここまで読んで噴き出した皆さん、立派なFMICSメンバーですな(笑)
これで場は和んだだろう。ここから本欄の主題である「ひらめき」について考えてみよう。何かを考えている時にふと思いつく場面に遭遇した経験は誰しも1度はあるだろう。茶話会ではそのタイミングについての話題になった。「風呂に入っている時」「トイレに入っている時」「目覚めた時」「皿洗いしている時」こんな感じの事例だったと記憶している。ただ、こうした事例を列挙するほどに、勘違いする人達が存在する。
『〜すればひらめくんですか?』
…それは違うだろう。風呂やトイレに入るのは何らかの欲求を満たしたいから。目覚める前の段階では寝ている状態だが、さらにその前段階には「眠たい」という睡眠欲求がある。皿洗いをするのは使ったものを綺麗にして清潔を保ちたいから。人の行動は何らかの欲求充足を目的で為されるが、上記事例から「ひらめき」を期待して為した行動はほとんどないことに気づく。つまり、特定の行動で「ひらめき」を導くことはほぼない(あっても稀だろう)という事である。
この指摘を逆から見れば、人のあらゆる行動の中に「ひらめき」を導く物が含まれているという事である。こう書いてしまうとキョロキョロ「ひらめき」を探してしまいそうだが、それは必要ない。いや、必要かもしれないが「ひらめき」を意識しない方がいいだろう。
それはどういう事か? ここを考える起点として、茶話会でも発言のあった〈考えないと「ひらめ」かないよ〉から話を転がしてみよう。「ひらめき」とはある課題の解決のきっかけというニュアンスがあるだろう。無論、課題解決のためには「考える」という行動を為しているが、「ひらめき」の前段階で「考える」がなければならないという事を上記発言は意味している。一方、課題解決が困難に見えるほど「考える」事に日常が支配されがちになるが、我々が人間である限り、日常の中に基本的欲求があるのも確かである。ここを満たさなければ「考える」事すらおぼつかなくなる。そのため、一旦「考える」事を保留して基本的欲求を充足するための行動に切り替える。そう、この行動の【切り替え】、私なりの表現で表せば【目線を変える】事こそが、「ひらめき」のきっかけになるのである。上記「ひらめき」のきっかけの行動で共通している事、それが行動の【切り替え】であり、「考える」事から基本的欲求充足に【目線を変える】事であり、これが茶話会の折に私が若者達に発した質問に対する模範解答である。
無論、私の提示した模範解答が唯一のものではないし、内実は同じであってもその表現は大いに異なりうる。「ひらめき」のきっかけに限らず大事なのは、試行錯誤を通じて自分の納得する物を見出すこと、それを自分の納得した言葉で表現する事である。君達が数年後にそれを見出せたのであれば、その後の人生において他人の言葉や裏切りに傷つく程度もグッと低くなるだろう。自分で納得した上で発したものなら、仮に他人に理解されなくても「そうなのね」で終了できて、深く悩まなくていいからである。「ひらめき」を起点にあれこれ語ってきたが、行動の【切り替え】や【目線を変える】事はかように重要なのである。
(中村 勝之)

タグ:中村 勝之
【巻頭言の最新記事】