2021年06月09日

塩1つまみで味付けは劇的に変わる!

 徒然なるままに、夜中にPCに向かいて…ではないが、今回は雑談で紙面を埋めてみようと思う。

 先月の例会、一番のポイントは参加者のどなたかの発言「学生が万引きで捕まったが、店長から『お宅の学校はどういう教育をしているのか?』と言われた」に凝縮されていると思う。要は、学生を育成するに当たって大学の責任はどの範囲まで及ぶのかということである。読者が中高校関係者であれば生徒、小学校関係者であれば児童に置き換えても全く同様に成り立つ。様々な観点で語る事ができるが、若者が児童・生徒・学生になるに連れて何が変わるかと言えば、彼らの行動範囲である。それに反比例する形で、若者に対する学校関係者の直接的責任は小さくなる。この対応関係は保護者においても本質的差異ないであろう。結局の所、学校関係者が若者に対して負う直接的責任は、学校が直接提供する有形無形の教育サービスにおける質量の両面の保証しかない。正直な話、学校を卒業した児童・生徒・学生の卒業後における行動に対する責任は、学校が負う余地はグンと小さくなり、それは卒業後の時間が経過するほど益々小さくなる。

 例外的事例が数多あることを承知で言わせてもらえば、ここ十数年で企業の人材育成機能が急速に低下したような気がしてならない。無論、それと同時に、学校組織における人材育成力の低下も甚だしいのは間違いない。企業人が大学で学生相手に授業をすることは少し前の高大連携・高大接続と同様で、学生の学びを刺激するための企画である。少々下心を持てば、大学側には大学卒業後の就職先の確保を狙っている、企業側は少しでも優秀な人材を早期発見するきっかけを狙っているのかもしれない。

 これはこれで今のモードに合わせるという意味では重要な対応ではあるが、企業がこういう人材を(即戦力として)欲しているという理由からカリキュラムの大半を企業人育成にシフトさせるのはいかがなものか?企業人の教えを大学での学びにどう落とし込むのかという観点でカリキュラムを再検討することに意義はあるが、国際化と称して海外留学のルートを組織の許容を越えて拡張すること、コミュニケーション能力の育成と称して知識獲得のきっかけになる保証のないアクティブラーニングを無駄に拡張すること、データサイエンス隆盛の流れに乗ることを名目に統計学やプログラミングの授業を組織の許容を越えて拡張すること。実例の枚挙に暇がないが、本来の大学における、大学でしか担えない役割を放棄する事にどこまで正当性があるのか?ここをまず検討しなければならないだろう。

 とかく人間は帰属する組織の安定性を希求する反面、組織変革の名のもとにその不安定性を希求する存在でもある。この匙加減をどこに置くのか?今後の組織運営はより繊細な匙加減が要求されるのかもしれない。

(中村 勝之)

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タグ:中村 勝之
posted by fmics at 18:04 | TrackBack(0) | 巻頭言
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