これと似た嗜好は時計にも当てはまる。最近ではすっかり時計を持つ人は少なくなったが、私は自動巻き腕時計2本と懐中時計1本持っている。しかし、そのどれもが結構な頻度でメンテナンスしなければ購入当時の性能を維持できない反面、万年筆と同様に孫の曾孫まで使い続ける事ができる。また、時計は万年筆以上にアンティーク性・ヴィンテージ性が高く、それこそ家1軒分位の価格の時計が今でも登場している。大半の人はこのメンテナンスを面倒がって、持つとしても電池式時計に行きがちでる。無論、電池式時計にはそれなりの良さがあって、手巻き時計にはない機能を搭載させる事ができる。ただ、高性能時計は発売から10年ほど経過すると部品供給がほぼ完全になくなり、手巻き時計ほどの長期使用ができない。
時計は時間を計測する機械だから「時計」なのである。これはこれで間違いではないのだが、個人的には電池式時計を「時計」とはあまり言いたくない。高性能時計であるほどそう呼びたくない。むしろ「ウォッチ」と呼んだ方が(私には)しっくりくる。私がすっかり古い世代の人間に属しているからなのだろうが、時計と呼ぶに相応しいのはメンテナンスを通じた長期使用を(ある程度)前提にした手巻き式時計だけだと感じている。無論、時計に本来の機能以上の価値を感じない人には、時計を「時計」と呼ぶか「ウォッチ」呼ぶかはどうでもいい話である。それと同じで、文字を書く機能だけを満たしさえすれば、それが鉛筆であれ、ボールペンであれ、万年筆であれほぼ無差別である。だが、こうした拘りが人をして輝く存在になるのではないか。
スマートと言えば格好良いかもしれないが、見方を変えれば機能に本来持つ価値以上の価値を排除しているとも言える。スマートフォンに正確な時計機能が付いているから腕時計を付ける必然は失われている。だが、家電量販店に行けばスマートフォンのカバーが夥しく陳列されている。これが人間心理のどういう側面を表しているのか?ここを理解できれば、周辺環境のモヤモヤを少しでも解消できるのではないだろうか。
(中村 勝之)

タグ:中村 勝之