難関大学に進学したという事実が微妙な評価になったのは、高等教育の大衆化の当然の帰結の1つであって、所謂「大卒」が増えた事で難関大学の評価が相対的に低くなったからである。無論、高等教育の大衆化は必ずしも難関ではない大卒者の成功事例も増える結果をもたらすので,この事態も難関大学の価値を相対的に引き下げる結果になるだろう。一方、かつての有名企業の評価が微妙になってきたのは、技術進歩にもとづく新財の登場が人々のライフスタイルを変え、それが産業構造の変革をもたらしたのが1つの要因だろう。それに伴う価値観のズレもかつての有名企業には不利に作用したのかもしれない。
ここ最近、定期的にFMICS例会で高大接続等の「モヤモヤ」がテーマになっているが、変な話、このテーマが継続している裏には、参加した時点で解消されたと思えたモヤモヤがちょっとでも時が経てば再度湧き立ってしまう実情があると思われる。ここで、昔から今に残る価値観をA群、A群とは異なる新規の価値観の一連をB群とすれば、たとえば、B群に立脚した報告を聞けばA群に立脚した疑問が湧く。逆は逆で、A群に立脚した報告を聞けばB群に立脚した疑問が湧く。こうした反芻が脳内を駆け巡る限り、モヤモヤは解消される事はないのではなかろうか。
教育論における新しい議論はとかく旧来の議論を全否定する形で立論される。無論、反動が起こった際には新しい議論を全否定する形で旧来の議論が蒸し返される。これをA群・B群の話に置き換えれば、両群の共通部分は存在しないかのような印象を与えるし、圧倒的多数の教育関係者はそう思うだろう。これを高校数学の集合論で言えば、集合Aと集合Bの共通部分(A∩B)が空集合(φ)となると思っているようだ。
無論、教育業界に携わる者として集合Aと集合Bの和集合(A∪B)を目指すべきだとする主張も可能である。ただ、これは組織の目的として備えておくべき事項であって、個々の教職員に要求するべき物ではないし、仮にそれができる人材が存在するとしても、徒にそれを一般化するべきではない。個々の教員にとって疑問を差し挟むべきは集合Aと集合Bの共通部分(A∩B)が本当に空集合(φ)なのか? 高大接続の関連で言えば、旧来の受験指導と総合型選抜に即した思考力・表現力を鍛える教育方針に共通部分が本当に存在しないかどうか、ここを疑うべきである。
この疑問への回答になるかどうかは分からないが、そのヒントとして、拙著『学生の「やる気」の見分け方(文庫改訂版)』の終章で紹介した「学び習慣仮説」、もしくは「ラーニング・ブリッジング」の内容を紐解くのをお勧めする。
(中村 勝之)

タグ:中村 勝之