2020年12月04日

VUCAの時代を楽しもう あなたとわたしの THINK BIG を束ねます

「ズラした先に見えるもの」 佐藤 琢磨
 今回の「VUCA時代を楽しもう」は,妙味あるテーマだ。「危機」を想起させるネガティブな言葉と「楽しもう」というポジティブな言葉が共存している。相反する二つの言葉で織りなされて,おおいに賛成だ。「見通しのつきにくい」と訳される「VUCA」だが,裏を返せば,先のことは誰にも分からないから,考えてみれば当たり前だ。
 物事はとらえ方が違えば,まったく異なる表層が浮かび上がってくる。要は,その人の考え方次第だ。時間は皆に等しく24時間だが,朝の1時間は昼間の数時間分に値するだろう。ジョギングをしながら英会話を聞けば時間を重ねて有効に使うことができる。とらえようによっては,24時間が26〜27時間分に値するかもしれない。「楽しもう」というキーワードには「視点をずらして見方を変える」という含みがあるように感じる。かける眼鏡により,景色は随分と変わる。今回のシンポで,様々な眼鏡を試してはいかがだろうか。

「水をさすようですが」 長堀 一之
 「自分が学生ならどう考えるか」、この視点がコロナ禍で各大学人にはあったのか? よしんばあったとして、それが「大学としての立場」「世間から責められないための防衛意識」「他大学を意識しての横並び意識」よりも上に来ていたのか? 本学には短大もある。次年度もオンラインが主となるようでは「何のために進学したのかわからない」と自分が学生なら思う。
 「コロナ禍だから仕方ないではないか」という意見は別の角度から見ると正しいのだろう。そんな中、『VUCAの時代を楽しもう』とのタイトルには若干違和感を感じている。批判ではない。いや、教職員なら思考を変えたり、決定プロセスを変えたり、「楽しむ」工夫はあるのだろう、まして、FMICSのメンバーであれば。でも学生はどうだ、コロナ禍で振り回され、保身に走る大学に嫌気がさしているのではないか? 「あなたとわたし」ではなく、「あなたとわたしと学生」について語るブレイクアウトセッションを行いたいと思う。

「コロナ禍の現在を考える」 平田 暁子
 緊急事態宣言発令の頃、連日、在宅勤務となった。「コロナ禍のなか、私にできることはStay Homeしかないんだ…」と、かなりのショックを受けた(今から考えると)。それまでは、仕事に誇りを持っていたのだ。そして、大学って、教育って何だろう?と考えるようにもなった。
 新型コロナにより、できなくなったこと、制限されたことは多すぎる。しかし、現地に足を運ばなくとも参加できるようになったFMICS月例会、研究会、学会などは地方者にとっては大変ありがたいことである。ZOOMにより、ディスプレイを通して、相手に会えて、会議もできる。
 個々においては、今の時間をどのように過ごすのか、で今後に差が出てくるはずである。今こそ、人を思いやる気持ち、できないことを嘆くより、どうしたら、できるか、前向きに考えることが重要になるものと思うのである。

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「じゃまオジ」の矜持は「じゃまオジ」であり続けることだ!

 「じゃまオジ」これで裏巻頭言を書けという、相も変らぬ真義先生の無茶振り。どうやって話を繋げて行こうか…、思案しながら窓の外に目をやれば雀と目が合う。半端な田舎に居住する住民のあるあるな光景である。

 「じゃまオジ」何のことだか皆目見当もつかない読者も多いだろう。先日行われた例会ではとある年配の方が自虐的に(?)チャットに書き記したものである。個人的には洒落た表現で好きなのだが、例会中にはそこから話が膨らむことはなかった。

 「じゃまオジ」と聞いて、若者はどんなイメージを抱くだろうか。モードに追いつけない鈍感な人、追いつけないから仕事の足を引っ張りかねない人、仕事の足を引っ張ったことを叱責されて逆ギレする人…、こんなイメージを持つかもしれない。もしかしたら、おじさんにはない感性を持つ若者からは「かわいい〜」と言われるかもしれない。どう思われても仕方ない、どのイメージも中年以上の実態の一面を的確に表しているからだ。

 若者から見て、些か目障りに映る年長者はいつの時代にも存在していた。「じゃまオジ」とは全く違うニュアンスだろうが「頑固オヤジ」が最も近い表現だろう。逆に、年長者からは「今時の若者は…」なんて発言が太古から脈々と受け継がれてきた。こうした年長者と若者との間のギャップ(時代の認識の仕方とそれに対する対処の仕方の違いに代表できるだろう)は解消されることは決してなく、その意味で、我々は一歩も進歩していないと言えるのかもしれない。

 ある視点からカテゴリー化される事象に我々は「名前」を付けた。事象に名前を付けるのはそこに何らかの意味を付与する必要があるからである。それで行けば、ある視点でカテゴリー化された年長者を「じゃまオジ」と呼ぶのは、そうする必要があるからである。その必要とは何か? 世知辛い今の時流で行けば集団の中からやんわり排除する目的であろうか。ただ、悲しいかな、個人・組織にとって都合の悪いものを排除した世界が持続するわけがない。排除した残りの中から漏れなく邪魔者が生産されるからである。

 排除しようとしても排除し切れないし、仮に排除出来たところで時が経てば必ず生産される。しかも、今度は自分が排除される側に回るかもしれない(いや、必ず回る)。

 であるならば、「じゃまオジ」と自虐する暇があるのなら、その道を究めてしまうというのも面白い。自分が如何に「じゃまオジ」であるかを若者に見せる事で、若者が「じゃまオジ」になった際の在り様を教えるのである。「じゃまオジ」の矜持、ここに極まれり!

(中村 勝之)

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エプロン・ミシンの逆襲

 先日某クッキングスタジオの体験レッスンに参加、久しぶりにエプロンをつけたのがきっかけで目に留まった。日本経済新聞2020年11月26日「ヒットのクスリ(中村直文編集委員)」によると、アパレルのJUNが運営するブランド「サロン アダム エ ロペ」が、料理雑誌の「オレンジページ」やフィギュアスケーターの浅田真央さんとコラボしてエプロンを発売する。今秋、小学館のウェブマガジン「kufura(クフラ)」にエプロン特集があり、「料理をするとき、エプロンをつけますか?」とのアンケートに62.2%がつけないと回答。つけたり、つけなかったりが20.6%、そしてつけるが17.2%だった。つけない理由は「めんどくさい」「洗濯物が増える」「服が汚れても構わない」「そもそも持っていない」だった。一方で使う理由を聞くと「体形隠しになる」「携帯をポケットに入れられる」など市場再発掘の可能性も感じる。サロン アダム エ ロペによると、「外につけていけるファッション性もある。テレワークで自宅に長くいるので気持ちの切り替えにもつなげられる」という。実はエプロン、男性需要も増えているそうである。

 同様に市場が縮小していたミシンも需要が上向いている。最大手の蛇の目ミシン工業では1970年代に国内だけで年間50万台近くが売れ「一家に一台」といわれていたが、近年は20万台を割っていたという。ところが外出自粛や手作りマスクを作るための需要が発生。今年度は上期で既に昨年度の販売実績に並んでいる。同社は外出制限が終われば需要が落ちると見ていたが、巣ごもり生活は根付き好調を続けているという。5万円程度の
商品が売れ筋とのこと。

 エプロン、ミシンと昭和の「オワコン」が復権、近年不振が続く総合スーパーも回復傾向になる。代表格のイトーヨーカ堂にどんなオワコンが売れているかと聞くと「ミシンは昨年の2倍お売れ行き。他にはジグソーパズルが3倍、ボードゲームは2倍の伸び」と景気のいい話が返ってきた。ちなみにヨーカ堂はオワコンブームに乗り、創業100周年に合わせて「イトーヨーカドー限定 人生ゲーム」を12月1日から販売する。「1972年、ハトマークのロゴ誕生」などのマスをちりばめたのが特徴である。

 松屋銀座店では新・生活様式をうたい、「ぬか漬け」の道具と動画を扱う。コロナを機に様々なデジタルサービスが広がったが、生活を深堀りする消費者行動はアナログでも新市場を創造と位置づける。大学も「オワコン」から新しい業態、自己変革のときが来ていると感じた。

(宮本 輝)

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2020年11月06日

言葉を紡ごう、丁寧に丁寧に

 齢を重ねるのに比例して出会う人の数も増えていきます。家族、友達、先輩、後輩、担任、上司、顧客、…。出会った人達をその時々の環境に応じて色んな呼び方で呼称しますが、ある目線を通じて出会う人達をある程度分類する事が出来ます。もちろん、これは君自身の目線に忠実であるのが大事で、そこに客観性を持たせる必要はありません。で、それは何かと言うと、言葉の「紡ぎ方」とそこに込められた「想い」です。

 君の周りにこんな人はいませんか。「俺ってコミュ力抜群!」と言いながら場を乱すだけの人。「いざという時になったら俺はやるぜ!」と言いながら一向にやらない人。それが正当であれば本人の前で堂々と言えばいいのに、本人の見えない所で文句ばかり言う人。「それはおかしい!もっとこうするべきだ!」に対して「じゃぁ、ここに来てやってみる?」と返されて尻込みする人。事例を挙げたらきりがありませんが、こうした人達のことをカッコよく表現して【言動不一致】な人と総称することにしましょう。

 では、上で挙げた【言動不一致】な人はどこが一致してないのでしょうか。たとえば、コミュ力抜群と豪語する人はコミュニケーション本来の意味合いを間違って把握しています。コミュ力は「人前で喋る能力」と把握されがちですが、言葉とは元来それを発する人と受け取る人相互の了解の上で成り立つ「道具」です。受け取る人から発せられる言葉の意味、敢えてここでは「想い」と表現しておきますが、それをキャッチできなければコミュニケーションは成立しません。そして、その場に適した言葉を駆使、敢えてここでは「紡ぐ」と表現しておきますが、紡ぎ方を知らない者が言葉をやり取りした所で場を乱すだけです。それすら分からず、俺様ばりに「コミュ力抜群!」と豪語できる人…、痛くないですか? 俺様で言えば、「やる時はやるぜ!」と豪語する人も痛い奴と判断できます。俺様は発言した状況で「やるべき事」は何となく把握していると思われます。ですが、その「やるべき事」の期限がいつで、完成するまでにどれ位の時間を要するのか。完成物の精度はどれ位か。そこまで把握しているのでしょうか、俺様は。 内実や本音まで的確に把握して、その「想い」を言葉として的確に「紡ぐ」ならば、俺様は俺様発言などしないはずです。つまり、自らの率直な「想い」とそれを方明するために「紡いだ」言葉が一致しない、そういう人達のことを【言動不一致】な人と言っていいのかもしれません。

 ただ、上で述べた【言動不一致】な人の例外は幾つも見ることができます。たとえば、誰もが知っている某アスリート。誰が見ても日々努力を惜しんでないはずなのに、アスリート本人は「努力などしていない」と言ってはばからない。彼(彼女)からすると、自ら満足する成果を得るために集中している取り組む様、これを「努力」という言葉で表現しないのでしょう。別言すると、成果を残したいという「想い」を自分なりに「紡いだ」言葉が世間で流通している物ではないのでしょう。彼らからすると【言動一致】させた振舞いをしているにもかかわらず、第三者には【言動不一致】に見えてしまう…こんな感じでしょうか。

 私が同時代を生きる若者に望む事はただ1つ、自分の「想い」に寄り添った言葉を「紡げる」人間になって欲しい。これだけです。ただ、これを自分の内から実感するには、君の思うよりも相当長い時間を要するはずです。その間、勉強だって、恋愛だって、好きな事だって、嫌な仕事だって沢山の事柄を経験するはずですし、それを経ずして丁寧な言葉の「紡ぎ」出しは出来ません。そして、それがある程度自在に出来るようになって初めて〈無駄な経験など1つもない〉と実感できるはずです。

 経験したことが無駄だった…なんて思いたくないでしょ。ならば、色んな経験をして丁寧な言葉を「紡いで」行こうよ。

(中村 勝之)

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盲導犬幸せやのに

 「世間の誤解にほえさせてもらいますわ」。信号待ちの犬が突然、関西弁で話し始める。7月にスタートした日本盲導犬協会のテレビCMの一コマ。盲導犬へのネガティブなイメージに対して、自らが思いを語るユニークな設定で話題を呼ぶ一方、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などでは「犬の気持ちが分かるの?」と疑問の声も上がる。(2020年10月17日毎日新聞より

 視覚障害者とともに交差点で信号待ちをしている際、周囲から「盲導犬って大変そうだよね」「ストレス多そう」「かわいそう」とささやく声が聞こえてくる。それに気づいた盲導犬がふっと振り向き、「うちら、いつでも一緒におんのが幸せや思てんのに。そんなん言われたら、相方も悲しむわ」と一蹴。最後は「どうか、そんな目で見んといてえや。ほんまに、お願いしますわ。ほな、行こか」と立ち去る。

 CMはACジャパン支援キャンペーンとして制作。日本盲導犬協会は、「かわいそう」など盲導犬に同情するような何気ない言葉が長年にわたり視覚障害者を傷つけてきたとし、CMでは親近感を持ちながら互いの関係を正しく理解してもらおうと犬自身が語りかけるスタイルを採用。

 日本盲導犬協会は「誤解」が生じる背景に、視覚障害者は十分に盲導犬をケアできないのではという疑念が根強く残っていることを一因に挙げる。実際には視覚障害者は4週間にわたってパートナーとなる犬とトレーニングを積む。歩行だけではなく、餌やりや排せつといった犬の世話の仕方など、共同生活に向けて信頼関係を構築している。

 さらに盲導犬への理解を巡って関係者の頭を悩ませているのが施設や店舗への相次ぐ受け入れ拒否の問題。02年に施行された身体障害者補助犬法は、補助犬を伴う使用者を公共施設や飲食店などで受け入れることを義務づけている。

 視覚障害者への理解が進まない中で今年は「世間の誤解を解く」をテーマに全国の広告会社から58案が集まり、犬を主人公に自らの口で偏見解消をアピールした作品を採用した。全国の駅で掲示されるポスターなども作製、狙い目通り過去に比べ反響は大きいとのこと。

 現在盲導犬は900頭余りが全国で活躍中。ポスターの盲導犬は「みなさん、盲導犬の僕のこと、どのように見ています?」と投げかける。人気漫画「ワンピース」が少年ジャンプ編集部内で連載に反対意見が多かったのは有名な話だそうで、最近の名せりふは「異形を恐れるは己の無知ゆえ」。

(宮本 輝)

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2020年10月06日

「ひらめく」タイミングは、どこにでも転がっている!

 例会のテーマから容易に話が逸れるFMICS、それ自体は今の時代が方向性を見失っている事を物語っている。そんな現状をまるッと包み込みつつ無茶振り全開の高橋真義先生が代表を務めるFMICS、それを見て「まだ老け込んではいられない」と思いを強くする参加者たち。その中に、真義先生の無茶振りに忠実に応えようと筆を走らせる私がいる。

 さて、今回も真義先生から本欄のお題を頂戴した。それが「ひらめき」である。この言葉は例会後の茶話会(?)の席上で偶々出たもので、それを真義先生が確実に拾い上げつつ広げるだけ広げて、着地点が見出せそうなタイミングで「じゃぁ、かっちゃん。今回の裏巻頭言のネタはこれで」とのたまう真義先生。ここまで読んで噴き出した皆さん、立派なFMICSメンバーですな(笑)

 これで場は和んだだろう。ここから本欄の主題である「ひらめき」について考えてみよう。何かを考えている時にふと思いつく場面に遭遇した経験は誰しも1度はあるだろう。茶話会ではそのタイミングについての話題になった。「風呂に入っている時」「トイレに入っている時」「目覚めた時」「皿洗いしている時」こんな感じの事例だったと記憶している。ただ、こうした事例を列挙するほどに、勘違いする人達が存在する。

『〜すればひらめくんですか?』

 …それは違うだろう。風呂やトイレに入るのは何らかの欲求を満たしたいから。目覚める前の段階では寝ている状態だが、さらにその前段階には「眠たい」という睡眠欲求がある。皿洗いをするのは使ったものを綺麗にして清潔を保ちたいから。人の行動は何らかの欲求充足を目的で為されるが、上記事例から「ひらめき」を期待して為した行動はほとんどないことに気づく。つまり、特定の行動で「ひらめき」を導くことはほぼない(あっても稀だろう)という事である。

 この指摘を逆から見れば、人のあらゆる行動の中に「ひらめき」を導く物が含まれているという事である。こう書いてしまうとキョロキョロ「ひらめき」を探してしまいそうだが、それは必要ない。いや、必要かもしれないが「ひらめき」を意識しない方がいいだろう。

 それはどういう事か? ここを考える起点として、茶話会でも発言のあった〈考えないと「ひらめ」かないよ〉から話を転がしてみよう。「ひらめき」とはある課題の解決のきっかけというニュアンスがあるだろう。無論、課題解決のためには「考える」という行動を為しているが、「ひらめき」の前段階で「考える」がなければならないという事を上記発言は意味している。一方、課題解決が困難に見えるほど「考える」事に日常が支配されがちになるが、我々が人間である限り、日常の中に基本的欲求があるのも確かである。ここを満たさなければ「考える」事すらおぼつかなくなる。そのため、一旦「考える」事を保留して基本的欲求を充足するための行動に切り替える。そう、この行動の【切り替え】、私なりの表現で表せば【目線を変える】事こそが、「ひらめき」のきっかけになるのである。上記「ひらめき」のきっかけの行動で共通している事、それが行動の【切り替え】であり、「考える」事から基本的欲求充足に【目線を変える】事であり、これが茶話会の折に私が若者達に発した質問に対する模範解答である。

 無論、私の提示した模範解答が唯一のものではないし、内実は同じであってもその表現は大いに異なりうる。「ひらめき」のきっかけに限らず大事なのは、試行錯誤を通じて自分の納得する物を見出すこと、それを自分の納得した言葉で表現する事である。君達が数年後にそれを見出せたのであれば、その後の人生において他人の言葉や裏切りに傷つく程度もグッと低くなるだろう。自分で納得した上で発したものなら、仮に他人に理解されなくても「そうなのね」で終了できて、深く悩まなくていいからである。「ひらめき」を起点にあれこれ語ってきたが、行動の【切り替え】や【目線を変える】事はかように重要なのである。

(中村 勝之)

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果たしたい約束

 2020年10月3日(土)日本経済新聞オピニオン面(コメンテーター・上杉素直氏)で損害保険大手のSOMPOホールディングスが今年夏に始めた働き方改革の一環を取り上げ、社員の人生と組織の成長をいかにうまくつなげていくかというテーマにコメントしていた。社員一人ひとりに「あなたの使命は何ですか?」と人生観を正面から問いかけるユニークな試み。コロナ禍による就労環境の激変を奇貨として、桜田謙悟社長がかねてから温めてきた構想を実行に移したとのこと。

 SOMPOが取り入れたのはマイ・ミッションという耳慣れない概念。業務上の目標ではなく、あくまでその人が生涯かけて目指す何かを指す。「日本社会や企業に新しい価値やインパクトを与えていく」など。研修をのぞくと「Zoom(ズーム)」で集まったのは持ち株会社の管理職たち。まずは部長陣が外部講師の助けを借りて自分の人生を見つめ直し、マイ・ミッション・ステートメントを作ってみる。心が動かされるWANT(ウォント)、社会で果たすべき責務のMUST(マスト)、運命が与えた能力のCAN(キャン)。3つの切り口から自分を洗い出し、人生の使命を定義していく。

 部長は、自分のマイ・ミッションを作った経験を生かし、部下のマイ・ミッションづくりに携わる。部下のものの考え方や強みを面談で引き出したうえで、チームの業務を進める中で適切な役割を見つけ出す。この人間対人間のやり取りを促すプロセスこそ、リモートワークであっても結びつきの強いチームを築く土台になる。「仕事帰りに一杯やりながら語り合うノミニケーションの代わりみたいだ」と感じる人もいたそうだ。

 SOMPOが社員への福利厚生や社会活動として個人の使命探しを手伝っているわけではない。桜田社長は約8万人のグループ社員に宛てて8月に発信したメッセージで、働き方改革に取り組む理由に「圧倒的な生産性を発揮し続ける」ことを挙げていた。使命に基づくから高い生産性を発揮し「続ける」のが可能になる。SOMPOが出した答えである。

 朝日新聞「経済気象台」(9月29日(火))ではコピーライター・岩崎俊一氏(2014年67歳逝去)が1993年にセゾン生命保険で使われたコピー「仕事の約束は誰でも守る。遊びの約束をすぐ破ってしまう人が私はさびしい」を紹介し、このところ知人友人とのメールを「コロナ禍が落ち着いたらぜひお会いしましょう。楽しみにしています」と結ぶことが多く、約束は果たしたいとしていた。学生の学び、マイ・ミッションづくりを止めない約束を果たしていきたい。

(宮本 輝)

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2020年09月16日

FMICS流行語大賞ノミネート作品紹介?

アリ社会(コロニー)の詳細の観察から、いわゆる2:6:2の法則や2:8の法則等が主張され、同じ社会的生物である我々に対しても似た分類が適応できるとの主張がある。アリと違って人間は社会全体を対象にした実験が本質的にできないので、我々を2:6:2なり2:8に分類する科学的根拠は乏しい面はある。だが、個々のつたない人生経験を通じて、2:6:2なり2:8という分類はあながち間違っていないという実感があるのも確かである。

 複数の人間の集まるおよそあらゆる組織において、アグレッシブに活動している訳ではないが現実逃避をしている訳でもない階層が存在し、彼らが人間社会の主要層を占めるのはほぼ間違いなく、教育現場における諸課題の大半がこの主要層に関する事項なのもほぼ間違いない。ここでいう主要層を先月例会の文脈に即して「真ん中」と呼ぶが、しかしながら、それが必ず「悲劇」的状況を招く訳ではない。期せずして私の発した「真ん中の悲劇」という言葉が表題の如く今年のFMICS流行語大賞の有力候補になってしまったが、私としてはそこまで汎用性のある表現だと思っていない。その事をここで明らかにしようと思う。

 教育機関をあたかも人間の如く捉え、そこの偏差値、研究成果の認知度、教育実践の充実度等をトータルな「ブランド力」と表現するならば、その力の相違を通じて、各教育機関を2:6:2に大体分類する事ができる。ここで問題になるのは「真ん中」の6であるが、「真ん中」のうちどのpositionにいるのかで状況は相当異なるのは言うまでもない。以下は、大学を念頭に話を進めていく。

 たとえば、「上の2」の境界付近にいる「真ん中」は上の間隙を突こうと虎視眈々と狙っているはずである。間隙が容易に見出せないようであれば無理矢理にでもこじ開けようとするだろう。ただ、そのenergyは組織を構成する教職員・学生から湧き出るものではなく、組織の中で権力や財源を握る層に依存するケースが多いかもしれない。無論、間隙を突くenergyの源泉の1つには、放置すれば今あるpositionから没落してしまう事に対
する「恐れ」があるかもしれない。一方、「下の2」の境界付近にいる「真ん中」は今あるpositionから没落する可能性に対する「恐れ」が相当あるかもしれない。「下の2」の境界付近にある「真ん中」は総じて財政力に乏しい組織が多く、没落はそのまま組織解体につながりかねない。その意味では、最低限今のpositionを維持するためのenergyは組織全体に共有されやすい環境であるのかもしれない。

 ここで重要なことは、組織において強烈な「危機感」が存在するかどうかである。財政力のある大学ではそれこそ「危機意識」と「権力」をかざすことで、ともすれば怠惰な教員を(強制的に)動員することができるし、「危機感」を共有する教職員を集約することもできる。財政力の乏しい大学では没落することの「危機感」が怠惰な教員をも勤勉に変える。こう考えるとき、「上の2」から一定の距離がありつつも「下の2」からも一定の距離のある「真」の「真ん中」に位置する大学には「危機感」が希薄になる傾向にあるのは容易に想像つく。今のpositionを上げようとenergyを投入したところで分厚い壁の前に、そのenergyは持続しない傾向にある。これは上を目指す受験生がそれなりに流入する「ポタポタ効果」の恩恵を享受することでも強化される。この「ポタポタ効果」を享受できる限り、(表現は申し訳ないが)下層受験生の「上澄み」を排除することもできてしまう。変な話、「真の真ん中」の大学は各所で公表される『ランキング』の欄外にいるケースがあるが、それが却って「ポタポタ効果」を誘発し、組織変革へのenergyを削ぐ方向に作用してしまうのである。

 つまり、表題にある「真ん中の悲劇」とは、そのpositioningによって組織変革へのenergyが削がれることがもたらす帰結のことを指すのである。無論、例外はいくらでも指摘することができよう。しかし、組織変革のenergyに乏しい集団にありがちな傾向は、ほぼ共通していると思われる。
  • 些細なことでも組織決定を経なければならないという先入観がはびこっている。別言すれば、教職員が裁量的に動こうとしてもそれを許さない雰囲気が組織に蔓延している。

  • 権力者の周囲には彼らの意に沿った人間しか配置していない。あるいは、権力者の周りに有能な部下が誰もいない。別言すれば、「隙・嫌い」を通じた人員配置が常態化している。

  • 組織変革を叫ぶ言葉が空虚であり、具体化や実行の可能性を含んだ内容になっていない。あるいは、組織変革に際していたずらにリスクを振りかざす。別言すれば、会議において「空中戦」に始終していて、それでenergyを使い果たしている。この辺りは私の大嫌いな経営理論(多摩大学の小西先生、ごめんなさい!)の教科書レベルの内容だろうが、大事なことは関係者の目線が「内向き」になっていることである。

 教職員の目線が内向き傾向である限り、そこで育つ若者の目線も内向き傾向きにならざるを得ない。それを何とも思わないくらい麻痺した教育組織、そういう所に「悲劇」は襲ってくるものである。

(中村 勝之)

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大学キャンパスの新しいかたち

 立命館大学新聞は8月20日までに明らかにしたアンケート結果によると、学部生の2.3%が退学を本格的に考えているとのこと。「どうするか考えている」は7.5%で、退学を視野に入れている学生は計9.8%に上った。休学を視野に考えていると答えた学生は計25.6%いた。

 調査は5〜18日、学生新聞のホームページなどに設けた集計フォームで実施。対象は全学部生約3万2千人、学生証番号を検証した上で1414件の有効回答があった。調査結果によると、低学年や学費が高い学部の学生は、退学や休学を検討する割合が高い傾向にあった。下宿生でも同様の傾向がみられたが、統計上の差があるとまでは言えなかった。また、退学や休学を検討する学生は、ウェブではなく対面授業を希望する人が多かったとのこと。

 アンケートに回答した学生の想いをかみしめながら、2020年2月1日朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一氏)を読み返してみた。種村季弘氏『食物漫遊記』から「いかにもうまそうに書くこととうまいものを味わうこととは別のことである」を紹介し、美食家がうまい/まずいを語るのはご自由。それよりも「食べることの実際と夢想との落差」を逆手にとって、記憶や夢想の中にしかないものを「無いからこそ」深く文章で味わう、その悦楽が文明だとドイツ文学者は言う。「羨むべきは文明である」と。茶の湯でもお茶は先送りしたまま、いろいろな趣向を凝らして客をもてなし、そこに至る過程を愉しむと結ぶ。

 また「天声人語」では4年前に94歳で亡くなった青森県弘前市の佐藤初女さんが発した言葉の深みにひかれた記事を掲載していた。「人間関係で行き詰ったときは心を騒がせず休ませます。煮物と一緒。時間を置くとじんわりします」。カトリック教会の活動に関わり、傷ついた人々から相談を受けるようになり、深夜の電話や突然の来訪が増え自宅を増築。山小屋「森のイスキア」を建てて相談者を受け入れてきたとのこと。独特の対人感覚を備えた人で聴く側に徹し、諭すことはない。力点は食に置いた。持論は「ともに食すことともに在ること。言葉を尽くして話すより、深いところで通じ合える」。野菜を育て、収穫し、調理して食べる。その過程をゆっくりと共有した。

 大学キャンパスの新しいかたちの道しるべ、FMICSの英知結集です。

(宮本 輝)

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2020年08月11日

「生徒」から「学生」に脱皮できないのは若者のせい?

 コロナ禍での教育実践をメインテーマで7月25日の例会が行われたが、期せずして「学生」と「生徒」の区分について盛り上がってしまった。本来の趣旨から外れたテーマであったが、参加者の反応に少々違和感を覚えた。そこで、ざっと漢字の成り立ちを調べてコメントさせてもらったが、すかさず真義先生から『これをテーマに裏巻頭言を書くように!』ときた。相も変らぬ無茶振りだが、今号の裏巻頭言のネタをどうしようかと正直悩んでいた状況にあってはまさに渡りに船。有難く頂戴して、今号の裏巻頭言のネタに代えさせていただくことにする。

 ある言葉の意味やニュアンスを把握する際に国語辞典を調べる(検索する)のが普通だが、本当を言えば、特にニュアンスを把握するのには適切な手続きではない。なぜなら、国語辞典は現在の活用について網羅したものであって、言葉の持つニュアンスが日々変化する中にあっては、根源に潜むニュアンスを逃す可能性があるからだ。そこで、日本語の場合は漢和辞典で漢字の成り立ちを調べることをお薦めする。その方がより細かいニュアンスを把握することができるはずである(ちなみに、英語などについてはギリシア語やラテン語の意味を探ってみると意外な発見があるはず)。

 では早速調べてみよう。まずは「生徒」「学生」に共通する「生」である。これは地面から草木が芽を出す様子を表した象形文字が起源で、これから大きく成長するという意味では【未熟】という意味もある。次に、生徒の「徒」であるが、これは【道を行く時に乗り物を使わず土を踏んで歩く】が本来の意味である。今の状況から考えるに、どこかに行く時に徒歩で行くほど時間を要し且つしんどい事はない。だが、そうした一種徒労とも思しき行動を継続する(道を歩くというからにはその先に目的地があるはず。歩みを続けなければ到達できないのは当然)ことで未熟な者が成長する、そういうニュアンスが「生徒」に含まれていると思われる。最後に、学生の「学」であるが、これは【教える者が学ぶ者を向上させる交わる場である建物】が本来の意味である。

 これで分かるだろう。生徒と学生の決定的な違い、それは後者が学ぶ者にとって「教える者」という他者が明示されているのに対して、前者にはそれがない。無論、生徒が道を歩くのには他者の存在・支援なしには実際には無理である。しかし、自らの足で歩み続けることと他者と交わるのは決定的に違う。その意味で、学生とは他者と交わって数多の経験を積み重ねることで成長する存在、こういうニュアンスがあると思われる。それともう1つ考えられるニュアンスは、教える者と学ぶ者が特定の場所に集う存在、こうとも考えることもできよう。コロナ禍で考えて引き受けなければならないリスクは爆発的に増えているが、それでも、教育現場において他者と顔を合わせる授業形態を指向し続ける理由もここにある。ここで重要なことは、生徒と学生の違いを説明するのに学力の3要素(知識・思考力等・人間性等)は関係ないということである。ここは強調しておきたい。

 ところで、生徒・学生の話で思い出した事がある。私の大学入学直後の話。同期と先輩達との談笑の中で、私は自らを「生徒」と言ってしまった。だが、周囲はすべて「学生」と言っていた。これに私は強烈な恥ずかしさを覚え、それ以降自らを学生と言うようになった。こうした経緯で私は「学生」を自覚するようになったが、例会で上がった声と同様、今の大学生は自らを「生徒」と連呼する状況が私の職場にも蔓延している。そして、一部教職員は率先して(?)学生を生徒と言っている。ただ、自らを生徒と言う学生を『未熟になった』と断言してしまうのは少々違うと思う。元来学生も生徒も未熟な存在なのだから、上の発現は今の学生像を的確に表現していないと感じざるを得ない。

 ではどう表現すればいいのか? 今の学生をどういう目線で眺めるのかによって表し方は異なるのは当然だが、私ならば「環境変化に対して鈍感になった」と言う。この鈍感さには少なくとも2つの側面から考えることができよう。1つ目は、高校から大学に環境が変わったことでできる事とやるべき事の本質が変わるはずである。それに気付かない「鈍感さ」である。2つ目は、まさに「学生」と「生徒」が飛び交う空間にあってその言葉遣いの違いに「なぜ?」と気付こうとしない「鈍感さ」である。

 結局のところ、若者が未熟なステージから成熟のステージへ移行するには、成長過程においてどれだけの「気付き」を掴むかである。ただ、大人は得てして気付き方、すなわち、気付きのノウハウを伝えようとしがちである。当然だが、ノウハウを伝えるならばそれを活かす状況も提供しなければならない。では、今の教育現場で気付きを発見できる状況になっているのだろうか? その意味では、われわれ教育関係者ができる事の基本は若者に気づきを与えるための「刺激」を与え続けることである。そのチャンネルは授業を通じた正課活動や部活・留学などの課外活動はもちろんのこと、キャンパスを構成する構築物等そうで、これらが折り重なって多くの気付きを与えてくれる。こうした観点で、今後の例会で行われるファシリティ・マネジメントの話を聞くと多くの気付きがあるはずである。

(中村 勝之)

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