2021年10月06日

物を「もの」と呼ぶか「モノ」と呼ぶか

 前号の本欄で万年筆の話を少しだけした。この万年筆、それこそワンコインで購入できる物から、豪華な装飾を施されていてサインを書くのも躊躇われる代物まである。普段使いの物であってもペン先やインクに拘り、自分にとって気持ち良い仕様になる物を追い求められる。しかも、定期的にメンテナンスすれば、それこそ孫の曾孫の代まで使い続ける事ができる。無論、持つだけで「おぉ〜」と言われる万年筆ブランドも数多くあり、周囲からの注目を浴びるために持つというのもあるだろう。

これと似た嗜好は時計にも当てはまる。最近ではすっかり時計を持つ人は少なくなったが、私は自動巻き腕時計2本と懐中時計1本持っている。しかし、そのどれもが結構な頻度でメンテナンスしなければ購入当時の性能を維持できない反面、万年筆と同様に孫の曾孫まで使い続ける事ができる。また、時計は万年筆以上にアンティーク性・ヴィンテージ性が高く、それこそ家1軒分位の価格の時計が今でも登場している。大半の人はこのメンテナンスを面倒がって、持つとしても電池式時計に行きがちでる。無論、電池式時計にはそれなりの良さがあって、手巻き時計にはない機能を搭載させる事ができる。ただ、高性能時計は発売から10年ほど経過すると部品供給がほぼ完全になくなり、手巻き時計ほどの長期使用ができない。

 時計は時間を計測する機械だから「時計」なのである。これはこれで間違いではないのだが、個人的には電池式時計を「時計」とはあまり言いたくない。高性能時計であるほどそう呼びたくない。むしろ「ウォッチ」と呼んだ方が(私には)しっくりくる。私がすっかり古い世代の人間に属しているからなのだろうが、時計と呼ぶに相応しいのはメンテナンスを通じた長期使用を(ある程度)前提にした手巻き式時計だけだと感じている。無論、時計に本来の機能以上の価値を感じない人には、時計を「時計」と呼ぶか「ウォッチ」呼ぶかはどうでもいい話である。それと同じで、文字を書く機能だけを満たしさえすれば、それが鉛筆であれ、ボールペンであれ、万年筆であれほぼ無差別である。だが、こうした拘りが人をして輝く存在になるのではないか。

 スマートと言えば格好良いかもしれないが、見方を変えれば機能に本来持つ価値以上の価値を排除しているとも言える。スマートフォンに正確な時計機能が付いているから腕時計を付ける必然は失われている。だが、家電量販店に行けばスマートフォンのカバーが夥しく陳列されている。これが人間心理のどういう側面を表しているのか?ここを理解できれば、周辺環境のモヤモヤを少しでも解消できるのではないだろうか。

(中村 勝之)

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パルスオキシメーター

 新型コロナウイルスの感染拡大で感染者が重症化するかどうかを把握する医療機器「パルスオキシメーター」、原理を考えたのは日本の技術者で4月に84歳で亡くなった青柳卓雄さんであると朝日新聞天声人語(2021年8月28日)で知った。

 パルスオキシメーターは、血液中のヘモグロビンがどの程度酸素と結びついているかを示す「酸素飽和度」を光で測定する機器。酸素飽和度の数値は症状の程度を見極める目安の一つになっている。現在では指先に挟んで測るのが一般的である。

 新潟に生まれ、新潟大学工学部で学び島津製作所入社。光に関わる仕事を希望して1971年に日本光電工業に移り、医療機器の開発研究に力を注いだ。心臓から送られる血液量を光で測る機器を改良するための研究をしていた時、光を当てることで酸素飽和度を正確に測る原理を発見した。当時、酸素飽和度を安定的に測定することは不可能とされていただけに、青柳さんは学会誌の回顧録の中で「こんなうまい話が、この世にまだ残っているとは」と振り返っている。

 1973年に学会で発表。その後、日本光電は耳たぶに挟むだけで酸素飽和度が測れるパルスオキシメーターを開発した。指先に挟むタイプに進化すると世界に普及していった。パルスオキシメーターは現在、全身麻酔手術に欠かせない医療機器として定着。新型コロナウイルスの感染者が増えた際は、厚生労働省が軽症者の宿泊施設などに配備を促すなど注目が集まった。

 青柳さんは2002年に紫綬褒章を受章。2015年には米国電気電子学会が医療分野の技術革新者に贈る賞を日本人で初めて受けた。日本光電の小林直樹・特別研究員は「論文を書くより、役に立つものを作りたいという根っからの技術屋でした」。その死を悼んだ米イエール大の名誉教授は、青柳さんを2013年のノーベル医学生理学賞の候補に推薦したとの秘話を明かした。この計器に毎日お世話になりながらご冥福をお祈りします。

(宮本 輝)

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2021年09月08日

なぜにボールペンがサインペン?

 人は「無くて七癖」と言われている通り、我々の組成は癖だと言っても過言ではない。そんな中、私の癖は筆記具を書道の筆の如く(ほぼ)垂直に立てて使うことである。今の若者だとあまりないかもしれないが、普通筆記具を使い込めば中指に「ペンだこ」ができるのであるが、私は薬指にできる。まさに筆の持ち方で鉛筆等を握っているという事である。無論、幾度も矯正しようと努力はした。だが、筆の進まぬイライラが矯正への意志を悉く打ち砕き、すっかり開き直って今に至っている。

 私のペンの持ち方で困る事といえば、私の使用に耐えられる筆記具がなかなか見つからない事である。仮に見つかったとしても、マイナーな種故にすぐ店頭から消えてしまい、文房具屋を探し回らねばならない。まさにジプシー状態である。

 最近のトレンドで、シャープペンシルやボールペン等の先っちょがとにかく細い。シャープペンシルだと0.3o、ボールペン等だと0.1oも並んでいる。私の学生時代、まだこれらはまだマイナーだったため、0.3oのシャープペンシルとボールペンを積極的に使っていた時期がある。ところが、私の握り方だと、シャープペンシルの芯はポキポキ折れ、ボールペンのペン先が潰れる。悲惨だったのが、新品の0.3oボールペンを使用3分で潰した事である。ここにはペンを(ほぼ)垂直に立てる事もさることながら、やたらと筆圧が濃い事も災いしている。ここから私と相性の合う筆記具を探す長い旅が始まった。

 所謂文房具にそこまでの拘りのない人からすると、「何をそこまで…」と思われるかもしれない。だが、理論経済学を主軸に研究らしきことを生業とする者からすると、紙とペンが必須アイテムである。変な話、紙とペンがしっくりする物でなければ研究が捗らないと言っても過言ではない。私の教え子で、万年筆で計算する者がいたが、彼は万年筆本体はもちろんのこと、計算専用のインクに紙まで用意していた。

 さすがの私も計算用紙まで専用品を揃える事はない(計算は講義・教授会資料の裏紙を使っている)が、ペンに関しては長期に渡るジプシー生活の結果、シャープペンシルは1.3o、(計算用)ボールペンは1.4o、(計算以外の)ボールペンは0.7oで落ち着いた。とはいえ、今のトレンドからは大きく外れているため、某文房具通販サイトで法人契約を結び、定期的に大量購入している。それが為か、購入した大量の文房具が私の研究室ではなく、図書館に納入される事しばしば。なかなか上手く行かないものである。

(中村 勝之)

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コロナが推す学び/#8月31日の夜に。

 新学期前後の不安を共有する番組「#8月31日の夜に。」(NHK・Eテレ、31日(火)22時〜)を紹介したい(朝日新聞8月30日(月)「フォーカスオン」より)。2017年に10代の悩みやしんどさを受け止め、分かち合う場にしようとスタート。夏休みが終わり、学校に戻るプレッシャーや久々の学校生活でストレスがかかるこの時期に毎年放送してきた。

 企画に携わったプロデューサーは、10代自身の話を聞くうち、たとえ周りに家族や友人がいても悩みの本音を伝えられないことを知った。「同じように悩む人が世の中にはいて、自分だけじゃないと知ってもらう。その共有の場を作る。死にたいくらいつらい子どもたちに対して、メディアができることかなと思いました」とのこと。

 毎年、番組の特設サイトにある掲示板「ぼくの日記帳」で投稿を募っている。学校や家庭の悩み、将来への不安。生放送の番組では、寄せられた投稿を紹介しつつ、ゲストが語り合う。今年のゲストは、タレントの中川翔子さんや音楽クリエーターのヒャダインさんら4人。毎年、10代の頃に葛藤した経験がある人を招いている。

 番組の演出は毎回変わる。今年は水族館の水槽の前で中継。その意図をディレクターは「多様な生き物が思い思いに、水槽という同じ空間のなかで生きている。10代の方々が求めるような優しい世界に近いのではないかと考えました」と説明する。

 番組では、悩みに対して助言したり励ましたりはしない。ただ受け止める。掲示板「ぼくの日記帳」は、放送後もしばらく書き込めるという。

 私の職場の事務局で新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生、事務局閉鎖という事態になってしまった。

 〈備えていたことしか、役には立たなかった。備えていただけでは、十分ではなかった。〉書かれたのは7年前。『東日本大震災の実体験に基づく 災害初動期指揮心得』という資料の冒頭にある。国土交通省東北地方整備局がまとめた内部資料だが、電子書籍として一般にも無料で公開されている。

 被災直後に、国が管理する道路や港、空港の復旧にあたった担当者たちが、その時どうしたか、どうすべきだったかが詳細に記されて、学ぶところは多い。例えば、防災ヘリコプターが地震直後に緊急発進し、空港を襲った津波を逃れたことなど後に称賛された対応の多くは、あらかじめ準備されていたという。その上でなお、臨機応変の対応が必要だったとのこと。本学の事態の原因究明もさることながら、入院中や療養中の方の回復を祈るばかりである。

(宮本 輝)

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2021年08月04日

人蝉見て我が無知を想ふ

 生まれは違うものの人生の殆んどを関西で過ごしてきた者にとって、蝉といえばクマゼミだと言われている。だが、周辺環境の事情からか、私にとっての蝉はアブラゼミだった。無論、クマゼミにも数多く遭遇したが、印象としてはアブラゼミの方が圧倒的に強い。

 クマゼミとアブラゼミ、今世紀に入る前後辺りからか、その生息分布に変化が起こっている事が言われている。要は西日本を中心に分布していたクマゼミが東日本にも広がっている現象である。その要因には温暖化があると言われているが、実際は両者の飛翔能力の違いによる所が大きいらしい。

 クマゼミは飛翔能力が高く、木々の間隔が長くなっても木と木の間を飛ぶことができる。一方、アブラゼミはクマゼミよりも一回り小さいため、木々の間隔が長くなると木と木の間を飛び移る事ができない。ご想像の通り、木々の間隔が長くなってきたのは我々人類の開発による所が大きい。

 私の職場は(千里ニュータウンを模して開発された)泉北ニュータウンの端っこにある。着任当時はそれなりに緑に囲まれていたが、宅地開発や産業集積地「テクノステージ和泉」のための造成目的で、緑が次々と削られていった。リーマンショックの影響か、様々な開発が頓挫し、野ざらしになった造成地がキャンパス周辺に点在する結果になった。最近でこそ開発が再び行われるようになったが、キャンパスに鳴り響く蝉の合唱はクマゼミで行われるのが日常であった。

 ところが、である。今年の夏は様相が随分と違う。蝉の合唱にいつもと違うことが混じるようになった。足元を見れば、寿命を終えたアブラゼミが横たわっている。これまで意識した事はなかったが、キャンパス周辺に多数のアブラゼミが生息するのは初めてではないだろうか。なぜこんな事になったのだろうか? 新たな宅地造成が始まったからか? 梅雨明け以降猛暑日が続いているとは言え、そこまでひどい熱帯夜になっていないからか? その真相は分からないし、世の中分からない事で溢れているとの想いが湧いてくる。

 地面に横たわるアブラゼミを見る時、自らの無知を強く自覚するとともに、新たなウィルスを制御できると考える傲慢さへの自戒の念を抱かずにはいられない。

(中村 勝之)

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2021年07月07日

高大接続・連携を語る大人はキラキラしていたか?

 人は物事を判断する際、大抵は「天秤」に「錘」を乗せてより振れる方を選択している。楽しい事項ならば天秤皿がより下に振れる方、しんどい事項ならばそれがより上に振れる方…こんな具合である。理科の実験で用いられる天秤の場合は物理量の大小比較が目的であって、それに使われる錘は全員共通の物が利用される。ところが、人の判断に利用される錘はバラバラだと言っていい。同じ事象であっても、たとえばAさんは嬉しく感じるのにBさんは不快に感じるとき、2人で同じ錘が使われるとは考えにくい。また、同じ事象であっても、ある時点ではCさんは不快に感じていたとしても、別の時点では嬉しく感じる事だってあり得る。この場合は、同一人物であっても異なる時点で使われる錘が違うという事である。

 ここで大事なのは、ある時点におけるある事象に関する判断にはそれに適した錘を使った方が望ましい。そして、同じ時点・事象において他者が使う錘と自分が使うそれとの良し悪しの判断はそもそもできない事である。

 以上の話を元に、ここ数か月続けていた高大連携・接続について考えてみよう。片方の天秤皿に高大連携・接続を乗せる。反対側の皿に錘を乗せる。これまでの話に納得できた読者であれば、誰が錘を乗せるかで見え方がまるで違ってくる事、その見え方について他者が一切口出しできない事は容易に想像つくだろう。だが、雑多な見え方のする事象について何とか共通項を見出すとしたら、結局の所、高大連携・接続を通じた教育活動と、その延長線上にあると見なされている進路実績になるのであろう。そうすると当然の事ながら、これらに対する公平性や客観性が要求される。この課題は錘をいかに共通化するかという問題に収斂するのだが、その作業はほぼ不可能であることはちょっと考えれば分かるはずである。同一事象に対して錘を乗せる人物が異なるのだから、比較のしようがないのである。例会でどなたかが仰っていた「総合型選抜は不公平・不条理の塊だ!」この発言は高大連携・接続という課題に対する本質を鋭く突いたものであった。

 ならどう考えればいいのだ!?…と思考停止する人は、若者の人生を鳥瞰して考えたらいい。人の長い人生を考えるならば高大連携・接続は一瞬のイベントでしかない。無論、それがきっかけでその後の生涯を決める可能性もある。ココである。つまり、高大連携・接続を単に高校と大学を繋ぐものではなく、その後も繋ぎうる手段は何かと考えればいい。そんな都合いい手段なんて…と考える人はYouTuberを想起すればいい。今のトレンドに乗って脚光を浴びた存在であるが、彼らがキラキラしてるから若者は憧れるのである。ココである。高大連携・接続に携わる人がキラキラしていたら、それは若者にとって多大なインパクトを持つだろう。

 結局、若者という存在を突き動かすのは周囲の人が与えるインパクトしかない。その意味での教育の原点なり、躍動感、達成感に回帰することから始めてみてはどうだろうか。

(中村 勝之)

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コロナが推す学び/はたらく細胞

 厚生労働省と講談社は人気漫画「はたらく細胞」のうち新型コロナウイルスに関する2編を動画配信サイト「ユーチューブ」で無料公開を始めた。正しい知識を楽しく学んで対策に生かしてもらうのが狙い。国際協力機構(JICA)の支援で、英語やヒンディー語への翻訳も進めている。

 日本経済新聞2021年7月2日(金)「ヒットのクスリ」(中村直文編集委員)でも取り上げている。近年話題になった漫画・アニメの「はたらく細胞」、2015年に始まった本編は終了したが、スピンオフ漫画や関連企画は継続中でシリーズ累計700万部を超えている。この「細胞擬人化漫画」を簡単に説明すると、身体が街というか都市、国に見立てられ、これを守るため、白血球(クールな男性)や赤血球(少しドジな女性)、血小板(少女たち)などが作業員あるいは戦士として活躍するドラマである。

 例えば、街(身体)に入り込んだ細菌やウイルスなど外敵を、戦隊シリーズのように苦戦しながらも撃退していく。敵は花粉症だったり、インフルエンザだったり、その都度、「イケメン」のB細胞や、キラーT細胞などがヒーローとして暴れまくる。

 この想像力あふれる着眼点のきっかけは、著者の清水茜さんの妹が生物の授業中に描いた「細胞の擬人化イラスト」がベース。これを基にした新人賞の読み切りが講談社で大賞を受賞し、連載化した。編集担当者によると、当時の編集長(月刊少年シリウス)が「これが売れなかったら、編集長を辞める」と言うほど期待が大きかったとのこと。

 今年2月に発売した第6巻には再生医療に使うiPS細胞が登場、最終話にはなかなか倒せないウルトラマンのゼットンのような「強敵」、新型コロナウイルスが現れる。こうした化学モノは男性からの人気が高いが、はたらく細胞は10〜20代の女性からの反響が大きく、2度も舞台化した。

 中村編集委員は、作家の井上ひさし氏の名言を引用し「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでもゆかいに」はコンテンツマーケティングの極意であると結ぶ。

(宮本 輝)

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2021年06月09日

塩1つまみで味付けは劇的に変わる!

 徒然なるままに、夜中にPCに向かいて…ではないが、今回は雑談で紙面を埋めてみようと思う。

 先月の例会、一番のポイントは参加者のどなたかの発言「学生が万引きで捕まったが、店長から『お宅の学校はどういう教育をしているのか?』と言われた」に凝縮されていると思う。要は、学生を育成するに当たって大学の責任はどの範囲まで及ぶのかということである。読者が中高校関係者であれば生徒、小学校関係者であれば児童に置き換えても全く同様に成り立つ。様々な観点で語る事ができるが、若者が児童・生徒・学生になるに連れて何が変わるかと言えば、彼らの行動範囲である。それに反比例する形で、若者に対する学校関係者の直接的責任は小さくなる。この対応関係は保護者においても本質的差異ないであろう。結局の所、学校関係者が若者に対して負う直接的責任は、学校が直接提供する有形無形の教育サービスにおける質量の両面の保証しかない。正直な話、学校を卒業した児童・生徒・学生の卒業後における行動に対する責任は、学校が負う余地はグンと小さくなり、それは卒業後の時間が経過するほど益々小さくなる。

 例外的事例が数多あることを承知で言わせてもらえば、ここ十数年で企業の人材育成機能が急速に低下したような気がしてならない。無論、それと同時に、学校組織における人材育成力の低下も甚だしいのは間違いない。企業人が大学で学生相手に授業をすることは少し前の高大連携・高大接続と同様で、学生の学びを刺激するための企画である。少々下心を持てば、大学側には大学卒業後の就職先の確保を狙っている、企業側は少しでも優秀な人材を早期発見するきっかけを狙っているのかもしれない。

 これはこれで今のモードに合わせるという意味では重要な対応ではあるが、企業がこういう人材を(即戦力として)欲しているという理由からカリキュラムの大半を企業人育成にシフトさせるのはいかがなものか?企業人の教えを大学での学びにどう落とし込むのかという観点でカリキュラムを再検討することに意義はあるが、国際化と称して海外留学のルートを組織の許容を越えて拡張すること、コミュニケーション能力の育成と称して知識獲得のきっかけになる保証のないアクティブラーニングを無駄に拡張すること、データサイエンス隆盛の流れに乗ることを名目に統計学やプログラミングの授業を組織の許容を越えて拡張すること。実例の枚挙に暇がないが、本来の大学における、大学でしか担えない役割を放棄する事にどこまで正当性があるのか?ここをまず検討しなければならないだろう。

 とかく人間は帰属する組織の安定性を希求する反面、組織変革の名のもとにその不安定性を希求する存在でもある。この匙加減をどこに置くのか?今後の組織運営はより繊細な匙加減が要求されるのかもしれない。

(中村 勝之)

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お風呂が沸きました

 2021年5月29日(土)毎日新聞夕刊1面に“念願の商標登録”の見出し。住宅機器メーカー「ノーリツ」(神戸市中央区)製の給湯器のメロディーと声が今春商標登録されたとのこと。1997年以降の製品から浴槽の湯張りが完了した時にリモコンから流れるようになり、ドイツ人作曲家テオドール・エステン(オースティン)のピアノ曲「人形の夢と目覚め」の第2部「夢を見ているところ」の「ソファミ〜ソドシ〜ソレド〜ミ〜」というメロディーを奏でた後、「お風呂が沸きました」と告げる。

 それより前はブザー音だったそうだが、目の不自由な方々の利便性を高めるため、分かりやすい内容に変更。担当者によると「聞き飽きず、流行に左右されない」との理由からクラシック音楽に絞り、「風呂に入る高揚感や幸福感を感じられる」としてこの曲を選んだという。

 メロディー、文言ともに97年から一貫しているが、実は細かい変更が繰り返されている。2000〜01年の製品からメロディーが更新、リモコンのバージョンアップに伴い給湯温度の変更など搭載する音声案内が増え、データを圧縮する必要が出てきたため。どうせ変更するならと、コンピューターで鉄琴の音に変換していた従来の方法を改め、シンセサイザーの生演奏に変えた。演奏は当時の従業員が担い、譜面の正確な再現は機械に劣ったものの、「耳になじみがいい」と評判はよかったという。

 湯張りの完了を告げる女性の声は声優に頼んでいる。現在は3代目も務めた5代目の声優が担っている。リモコンは5〜10年で新しいものに切り替えるため、案内する内容や種類の変更に合わせて音声も定期的に録音し直している。

 各家庭に流れ続けてきた音楽と音声だが、商標は長年文字や図形だけだったため、これまで商標登録されることはなかった。2015年4月から音も認められるようになった。特許庁が新たに「音商標」の登録を始め、小林製薬の「ブルーレット置くだけ」、大正製薬の「ファイトー、イッパーツ」などテレビCMでなじみ深い音声も認められている。

 ノーリツは2017年7月に特許庁へ商標登録を出願したものの、2018年6月オリジナル曲ではない上に、社名や商品名が入っておらず「ノーリツと識別できない」として却下された。それでも諦めず、テレビ番組で取り上げられたことやCMの放映回数、導入当時の製品カタログなど四半世紀にわたり親しまれてきた実績を追加で資料提出し、2021年3月に念願の登録がかなった。ノーリツによると、クラシック音楽を含む音声としては初の登録、音声は同社の公式ユーチューブチャンネルで聴けるとのこと。

(宮本 輝)

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2021年05月05日

「くじ」と「くじ」の狭間で

 今回は先月の例会でも出た「最適停止問題」から話を発展させていこう。これは様々な形で定式化されているが、以下では「秘書問題」として状況設定を説明することから始めよう。
  1. ある企業が秘書1名の採用募集をしたところ、n人の応募があった(nは既知)。
  2. 応募者には順位をつけることができ、複数の応募者が同じ順位になることはない。
  3. n人から無作為に1人選んで面接を行い(ゆえに、最良の秘書が何番目に来るのかが不明)、採用の可否は面接終了直後に決める。
  4. 採用者はそれまで面接した者のうち相対順位の一番高い者である。また、採用された者はその旨を断らない。
  5. 採用が決まればそれ以降の面接は行わない。また、一度不採用とした応募者を後から採用することはできない。

 この問題は経済学の言う「非対称情報問題」の典型である。採用に当たって、応募者の中で誰が最良の人材なのかが選考前の段階で分からない(仮定(3)より)からだ。事前に応募者の内実が不明な状況では事前審査(スクリーニング。大学入学者を選ぶ状況なら各種入試や出願の際の各種要件)を行うのが普通だが、今の設定では面接以外の判断材料がない。そこで、企業は次のような採用過程を踏むだろう。
  • 最初のk人までは相対順位をつけつつ無条件に不採用とする。
  • k+1人目以降は最初に@で定めた相対順位を上回った応募者を採用する。

この時、企業の直面する問題は、最良の人材を獲得する確率を最大にするように、すなわち無条件に不採用にする応募者数をどのように制御すればいいのかに帰着する。その結果は、k=n/e、すなわち応募者の1/3強を無条件に不採用とし、その直後に面接した応募者を採用すれば、その人は確率約37%で最良の人材であると話したのは例会の通りである。そして、この問題の美しい所は、この確率の大きさが応募者の大きさに依存しない事である。

 さて、上の話を応募者の立場で少々深堀りしてみよう。

 第1に、応募者はその企業の業態や業績・評判、秘書業務がどのような物であるのかについての知識を持っている必要がある。就活を控える大学生は本質的に同じ事が要求されるが、高校生の場合、出願を考える大学の評判や学部で何を勉強するかについての情報が必要だという事である。第2に、採用者はそれ以前までの面接者の中で相対順位が1位だっただけで、その基準は応募者から見れば不明である。逆に言えば、採用者が採用されたのは「くじに当たった」程度の意味合いしか持たない事である。変な話、真面目に努力を積み重ねても採用され(合格し)ないケースもあれば、適当にやっていても採用され(合格す)るケースもあるのである。第3に、選考段階でスクリーニングするのは本質的に企業が主体的に行うのであって、応募者は行えないという事である。無論、第1の点を踏まえれば、応募(出願)段階で適切な情報を入手した上で取捨選択したのであれば、それなりのスクリーニングを行ったと言えなくもない。だが、第4に、企業側から見て約63%の確率で採用者が最良の秘書ではないのと同様に、応募者側から見ても採用されて働いた結果に満足するかが全く分からない事だし、そもそも論として、採用後の話は秘書問題には存在しない事である。仮定(4)から、採用者は企業からの申入れに断ることはないというのは、第1の点から、応募企業に関する情報や秘書業務の内容を知っているからであって、この点を持ち出すこと自体がナンセンスである。だが、現実はそうは行くまい。

 以上を踏まえて、高校生向けにどのような日常生活を営めばいいのかについてアドバイスしてみようと思う。無論、この話は全ての年代で直面する事項に当てはめても同様に成立する。

 高校卒業後の進路の主軸は大学にあるのだろう。その数約800。ここから大学卒業後の進路や大学で学びたい分野、居住地等を勘案して選択肢を絞り込む。その際、実は学力(偏差値)や評定平均に基づいた階層が成り立っている。実は、高校生たちが絞り込む選択肢には階層が存在する。なので、大学進学後に何をするのかと同時に選択肢の階層も見定めなければならない。そして、現状と比較して目標とする階層と食い違いがあるのなら、そこにある程度合致するための行動を取らねばならない。

 さらに、選択肢を絞り込むためにオープンキャンパス等に積極的に参加して選択肢の実情を知っておくことが必要である。ただ、失礼な言い方だが、大学関係者は高校生に対してありきたりな事しか言わない傾向にある。そのまま受け取れば選択肢の絞り込みができなくなってしまう。その意味では、相手を見抜く「目」と「耳」を持つ必要がある。目標階層に合致するためのあらゆる行動、それと同時に「目」と「耳」を磨くあらゆる行動、これらは「くじ」を引くまでに継続できていなければならない。「くじ」を引く直前段階で何をやっても本質的に無駄である。現状に合致する階層を変更することは本質的に無理なのだから。

 人生のキーポイントには必ずといっていいほど「くじ引き」がある。その結果そのものは確率事象なのでそれ自体を大きく変えることはできない。だが、ある「くじ引き」と次の「くじ引き」には時間的間隔がある。その間に何を為すべきか? ここを考えるのが高校生目線で見た高大連携・高大接続の本質の1つである。

(中村 勝之)

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