2020年08月11日

「生徒」から「学生」に脱皮できないのは若者のせい?

 コロナ禍での教育実践をメインテーマで7月25日の例会が行われたが、期せずして「学生」と「生徒」の区分について盛り上がってしまった。本来の趣旨から外れたテーマであったが、参加者の反応に少々違和感を覚えた。そこで、ざっと漢字の成り立ちを調べてコメントさせてもらったが、すかさず真義先生から『これをテーマに裏巻頭言を書くように!』ときた。相も変らぬ無茶振りだが、今号の裏巻頭言のネタをどうしようかと正直悩んでいた状況にあってはまさに渡りに船。有難く頂戴して、今号の裏巻頭言のネタに代えさせていただくことにする。

 ある言葉の意味やニュアンスを把握する際に国語辞典を調べる(検索する)のが普通だが、本当を言えば、特にニュアンスを把握するのには適切な手続きではない。なぜなら、国語辞典は現在の活用について網羅したものであって、言葉の持つニュアンスが日々変化する中にあっては、根源に潜むニュアンスを逃す可能性があるからだ。そこで、日本語の場合は漢和辞典で漢字の成り立ちを調べることをお薦めする。その方がより細かいニュアンスを把握することができるはずである(ちなみに、英語などについてはギリシア語やラテン語の意味を探ってみると意外な発見があるはず)。

 では早速調べてみよう。まずは「生徒」「学生」に共通する「生」である。これは地面から草木が芽を出す様子を表した象形文字が起源で、これから大きく成長するという意味では【未熟】という意味もある。次に、生徒の「徒」であるが、これは【道を行く時に乗り物を使わず土を踏んで歩く】が本来の意味である。今の状況から考えるに、どこかに行く時に徒歩で行くほど時間を要し且つしんどい事はない。だが、そうした一種徒労とも思しき行動を継続する(道を歩くというからにはその先に目的地があるはず。歩みを続けなければ到達できないのは当然)ことで未熟な者が成長する、そういうニュアンスが「生徒」に含まれていると思われる。最後に、学生の「学」であるが、これは【教える者が学ぶ者を向上させる交わる場である建物】が本来の意味である。

 これで分かるだろう。生徒と学生の決定的な違い、それは後者が学ぶ者にとって「教える者」という他者が明示されているのに対して、前者にはそれがない。無論、生徒が道を歩くのには他者の存在・支援なしには実際には無理である。しかし、自らの足で歩み続けることと他者と交わるのは決定的に違う。その意味で、学生とは他者と交わって数多の経験を積み重ねることで成長する存在、こういうニュアンスがあると思われる。それともう1つ考えられるニュアンスは、教える者と学ぶ者が特定の場所に集う存在、こうとも考えることもできよう。コロナ禍で考えて引き受けなければならないリスクは爆発的に増えているが、それでも、教育現場において他者と顔を合わせる授業形態を指向し続ける理由もここにある。ここで重要なことは、生徒と学生の違いを説明するのに学力の3要素(知識・思考力等・人間性等)は関係ないということである。ここは強調しておきたい。

 ところで、生徒・学生の話で思い出した事がある。私の大学入学直後の話。同期と先輩達との談笑の中で、私は自らを「生徒」と言ってしまった。だが、周囲はすべて「学生」と言っていた。これに私は強烈な恥ずかしさを覚え、それ以降自らを学生と言うようになった。こうした経緯で私は「学生」を自覚するようになったが、例会で上がった声と同様、今の大学生は自らを「生徒」と連呼する状況が私の職場にも蔓延している。そして、一部教職員は率先して(?)学生を生徒と言っている。ただ、自らを生徒と言う学生を『未熟になった』と断言してしまうのは少々違うと思う。元来学生も生徒も未熟な存在なのだから、上の発現は今の学生像を的確に表現していないと感じざるを得ない。

 ではどう表現すればいいのか? 今の学生をどういう目線で眺めるのかによって表し方は異なるのは当然だが、私ならば「環境変化に対して鈍感になった」と言う。この鈍感さには少なくとも2つの側面から考えることができよう。1つ目は、高校から大学に環境が変わったことでできる事とやるべき事の本質が変わるはずである。それに気付かない「鈍感さ」である。2つ目は、まさに「学生」と「生徒」が飛び交う空間にあってその言葉遣いの違いに「なぜ?」と気付こうとしない「鈍感さ」である。

 結局のところ、若者が未熟なステージから成熟のステージへ移行するには、成長過程においてどれだけの「気付き」を掴むかである。ただ、大人は得てして気付き方、すなわち、気付きのノウハウを伝えようとしがちである。当然だが、ノウハウを伝えるならばそれを活かす状況も提供しなければならない。では、今の教育現場で気付きを発見できる状況になっているのだろうか? その意味では、われわれ教育関係者ができる事の基本は若者に気づきを与えるための「刺激」を与え続けることである。そのチャンネルは授業を通じた正課活動や部活・留学などの課外活動はもちろんのこと、キャンパスを構成する構築物等そうで、これらが折り重なって多くの気付きを与えてくれる。こうした観点で、今後の例会で行われるファシリティ・マネジメントの話を聞くと多くの気付きがあるはずである。

(中村 勝之)

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あせらず、あわてず、あきらめず

 大阪府知事「うそみたいな本当の話」とうがい薬のすすめ発言を聞いて、2019年2月8日朝日新聞・天声人語『映画「がんになる前に知っておくこと」』を思い出した。

 この映画を企画した上原拓治さん(45)は、3年前がんで義妹を失った。自分には無縁な病気、そう思うからこそ不安に陥る。「がんが疑われて動揺しない人はいません」。がんについて一からわかる映画を目指し、三宅流監督(44)と共に医師や看護師、患者ら15人を取材。病気と向き合う手立てを丹念に拾った。

 助からない病の代表では?「がんイコール死というのは30年も前の古いイメージ。今はがんと共存できる時代です」。専門医が力を込める。怖くてしかたがない時は?「患者の恐怖を医学は解決できません」。医師が限界を率直に語る。何より頼りになるのは経験者の生の声だという。患者たちはピア(仲間)サポートの部屋で不安をはき出す。治療に納得できない場合は?「医者はどうしても生存率にこだわる。ですが優先されるべきは患者の生きがい」。自身もがんと闘う医師が答える。好例として挙げられたのは舌がんの落語家。「高座に上がりたいから舌は切らない」と外科手術を断った。

 あせらず、あわてず、あきらめず。経営やスポーツの哲学としてしばしば聞く心構えがそのまま当てはまるのではないか。生涯で2人に1人ががんを経験する時代、この病気と付き合う「知恵袋」のような映画であるとまとめていた。

 そして天声人語の左上にある「折々のことば」では、元CM制作者の漫画家・エッセイストの本田亮著『転覆家族が行く!!死ぬとき後悔しないための家族&仕事術』(フレーベル館)から『もう少し「金」曜日を減らし意識して自然と触れ合ったほうがいいんじゃないか』を紹介していた。激務が続く中、週末よく家族とキャンプに出かけある日ふと思う。曜日の名はもっと自然と触れ合えと伝えている。月を見る、火を熾す、水と遊ぶ、木に触れる、土を踏む、陽光を浴びる。満員電車で鉄筋のビルに通い、プラスチックのパソコンを操作して「金」を稼ぐばかりだと、心が乾いてしまうよと。

(宮本 輝)

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2020年07月19日

先生のこと、覚えていますか?

 数多い本誌読者の中で本欄に目の止まったごく僅かな人達に向けて、ひっそりこっそり質問を投げてみたい。

Q1.今まで学校で出会った諸先生の中で、今でも印象に残っている方は何人いますか?

Q2.今まで学校で受けた授業の中で、今でもはっきりと覚えている内容はどれくらいありますか?

 質問を読んだ人達が指を折っている間に、私の解答例を示しておく。

 まずQ1.だが、こう問われたら私は間違いなく2人の先生を挙げる。1人目は高校3年当時の担任。物理の先生で、いわゆる「熱血先生」から一番遠い位置にいる、クールな方だった。ただ、生徒のポテンシャルを見抜くのは一級品で、見事にメロメロになった。2人目は大学院の恩師。高橋先生ばりの強烈な個性の持ち主で、今の私の担当する講義科目のエッセンスは彼の退官時の「最終講義」に明瞭に示されている。

 次にQ2.だが、学部時代の「人文地理学」の講義、大学院時代の「比較(インド)思想」と大学院時代の恩師の最終講義の3つを挙げる。

 我々は学校環境の中で様々な教諭・教員から様々な教科内容を教授される。だが、学校環境から離れてある程度の年数が経過すればその殆どを忘れてしまうものであり、現在では指を折って数えられる程度しか挙げられないはずである。これが教育の理想とは別の所にある本質の1つである。いくら教諭・教員が一生懸命教科内容を教授したとしても、教授対象たる若者達は時間の経過とともに殆んど(教えた先生の人物像とともに)忘れてしまうものであって、これが普通なのである。

 学校環境で学習した内容は、よほど強く記憶に定着されているか現在でも活用しているものでもなければ、環境が変われば間違いなく忘れる。学校関係者が中心の我々であってもそうなのだから、それを踏まえず今の若者達に「勉強しろ!」というのは自己矛盾でしかない。こう言い切ってしまったら身も蓋もないが、教科内容自体はいくら必死で伝えようとも、学校環境を去ると記憶から忘れ去られる性質のものである。これを自覚しているか否かで若者に向き合うスタンスは大きく違ってくる。

 なので、学校関係者が若者達に長きに渡って記憶にとどめてもらおうとするために必要なこと、それは彼等に「インパクト」を与えることである。具体的にどのようにするのかは個別に異なるが、共通している事は「セルフ・プロデュース力」を身につけることである。

(中村 勝之)

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「7割経済」とどう向き合うか

 「7割経済」という言葉が散見され始めた。企業は当面はコロナ前の7割程度の経済規模に順応していかなければいけないということである。日本経済新聞2020年6月29日「経営の視点」(編集委員・田中陽氏)で「花王が徹する2つの数字」を取り上げている。

 「7割にいくらの数字を掛けたら1以上になるか」問いの答えは「1.43」。企業活動がより良き社会の実現のために新しい価値を見いだすには成長は不可欠。コロナ以前の経済を維持(10割経済)するには1.43倍の人と時間とコストをかける必要があるとのこと。

 コロナ禍の「7割経済」とどう向き合うか。花王の沢田道隆社長の頭の中には2つの数字がある。1つが「1.5」。7割経済にこの1.5をかける。働き方改革の中では人、時間、コストをふんだんには投入できない。生産性の向上で「1.5」を捻出し、プラス成長を目指す。在宅勤務で仕事のあぶり出しができた。無駄をそぎ落とし、そこにデジタルトランスフォーメーション(DX)で仕事の本質に迫る。長年の研究蓄積・資産を生かした明確なエビデンス(証拠・根拠)のある商品開発。「新常態の社会のニーズに合った新たな切り口で良さを伝えられれば、多くの方のお役に立てると考えている」(沢田社長)

 接客が難しい中での商品の価値をどう伝えるか。顧客との距離をどう縮めるか。そこにデジタルの出番があった。3月に発売したシートを歯に貼り付けてくすみを落としやすくする「ホワイトクリアパック」。自粛生活を余儀なくされると「おこもり美容」と名付けて自宅で歯のケアをしてもらうように社員が商品説明の動画を作成、数日でネットに発信してヒットにつなげたとのこと。

 2つ目の数字は「0.5」。「研究は途切らせたら終わり。陣容が縮小されても0.5人になってもやり続ける」(沢田社長)花王が5月に北里大学などと共同で新型コロナウイルスの増殖を抑える抗体を開発したのは、ノロウイルスなど感染予防に関する研究や連綿と続く0.5人の研究者の知見が生かされている。生活に役立つ身近な研究は「(医療の世界とは)違う視点をもたらす」(沢田社長)。それは製品化という社会実装につながる。

 1.5への強い意志をどう組織に埋め込むか。0.5への寛容さを持ち続けられるか。7割経済で終わらせない胆力が試されていると締めくくる。

 「reflection(リフレクション)」という英単語には反射という意味以外に内省、省察といった意味がある。自分の行動や感情を振り返り、客観的に捉え直す作業。物事を新しい視点で見直して仕事や生活上でより適切な判断をする、内面的な尺度の養成に役立つ。「コロナ対策として何をしているか」という報告だけでなく「何がうまくいって、何がうまくいかなかったか。それはなぜか」と知見を共有していきたい。

(宮本 輝)

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2020年06月10日

日本にとって最強の「戦略物資」は何か?

 今般の事情からか、世界史上の感染症に関する書籍が売れているようだ(かく言う私も、既に何冊も買い込んでいる)。

 一方、去る5月23日にオンラインで行われた例会で登壇者が半導体に関わる生産やシステムが国家にとっての「戦略物資」となっている状況を、驚きをもって語っておられた。それに思わず噛みついてしまったのだが、地域間交流という名のグローバル化が当然の中にあって、どういう部分に国家としての強みを見出していくのか? それは国家戦略として当然のことであるし、経済学者間で珍しくコンセンサスが成立している部分でもある。

 地域間での物流をするにあたって、どうすればwin-winな関係となるのか? 双方で競合しうるモノを流通させるのであれば双方で排撃運動が起こる(アメリカと中国との「貿易摩擦」が記憶に新しいところ)し、排撃が起こらなくても双方の市場機能(≒消費者の購買行動)によって優劣がやがて定まる。そうすると、単純な発想としては、双方の弱点を補完するようなモノの流通が実現すればいいのではないか? 逆から見れば、双方にとって(強化した方がいい)強みはどこかを明らかにできればいいのではないか? そうだとすると、強みや弱みを判断する基準は何か? それが「比較優位」という考え方である。これは自国(あるいは自地域)内にある産業のうち、どれが低コストで生産できるかで判断される。思わず「外国と比較しなくていいのか!?」と言いたくなるが、そうではないということをイギリスのリカードという経済学者がエレガントに証明した。人は本源的に居住する地域の自然的条件とその中で脈々と受け継がれてきた生活様式を与えられたものとして今の行動を決めている。そして、その形は地域によってさまざまだろいうのは容易に想像がつく。つまり、自然的条件と生活様式(≒歴史的条件)が全く同一な複数の国を見出すのは無理なのであって、その意味において、地域間の物流という観点から他国と比較することに意味がないのである。そう考えるとき、IT産業の立ち遅れを挽回する「国家戦略上」の目的で小学校においてプログラミング教育を導入している姿は滑稽に映ってしまう。

 比較優位は居住する地域の自然的・歴史的条件から滲み出てくる、他国との比較が不可能な概念である。であるならば、日本独自のオリジナルなものは何か?これこそが、日本にとっての最強の「戦略物資」である。

「じゃあ、その最強の『戦略物資』とは具体的に何だ!?」
「さぁ、『今月の本』を読んだらヒントが掴めるんじゃない?」
「そんな無責任な!」
「偉大なる無責任的存在が大学教員さ」

(中村 勝之)

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あなたも思わず「なんでやねん」

 関西人が普通に言えない言葉でお馴染み、「関西電気保安協会」のWEB動画『ある日突然関西人になってしまった男の物語』がSNSで「笑った」「嘘やと思うやろ? 全部ホンマやねん」など盛り上がりを見せているとのこと。これは同協会が公式YouTubeチャンネルにて3月2日から順次公開していた連続ショートコメディドラマ。4月17日全12話がまとめられた完全版が公開。

 ストーリーは関西とは縁もゆかりもない男、西尾学(西を学ぶ)がある日突然「関西人」になってしまったことで起こるエピソードを「関西あるある」を盛り込みながら描いたもの。2020年5月10日毎日新聞日曜くらぶ「スポニチ発深よみエンタプラス」のコラムでも取り上げていた。

 『第2話で医者に駆け込む西尾青年。「ホテル?」と聞かれ「♪ニューアワジ〜?」と返答、「とんかつとんかつ?」と聞かれ「♪KYK〜」と返答、「お仏壇の?」と聞かれ「♪浜屋〜」と返答。いくつもの関西ローカルCMの楽曲をパブロフの犬のように自然と受け答えしてしまう。医者から出された診断は「急性の関西人やね・・・知らんけど」。ええかげんすぎる展開に笑いがこみ上げる。

 鉄板のフレーズも健在。「♪かんさい〜でんき、ほ〜あん、きょ〜かい」のメロディは関西人にとっては、土曜お昼に吉本新喜劇を見ながら焼きそばを食べるという組み合わせくらいなじみが深いとのこと。同社によるとテレビCMは1976年にスタート。77年からこのサウンドロゴを使用するようになったという。

 テレビ版のCMはこれまで約140本を製作、ウェブ版は4作目となる。今回は「ストーリーをどうつなげるのか展開が難しかった」(同社関係者)と半年間かけて入念に製作。「保安協会が何の仕事をしているのか分からないイメージが強いけど関西では身近な存在。社会のインフラを支えているというメッセージを伝えたかった」(関係者)。同社は電気設備の点検や保安管理を行っているが、44年にわたりCM放送する業務内容を理解している関西人は少ないように感じる。ただ強烈なインパクトだけはあるのでCMとしては大成功。刷り込みをさらに推し進めるため黄色いヘルメットがトレードマークの同社社員も出演中。ニヤニヤできるCMは来年以降も続くはずで、さらに急性関西人が増えることは間違いない・・・知らんけど。』

 大阪弁をしゃべる猫がコロナウィルスに説教するという猫姉妹ちゃんねるさんが公開している動画も話題、さっそく「なんでやねん!」のツッコミの一つも入れたくなってしまった。

(宮本 輝)

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2020年05月07日

遠隔授業で学力は下がるから9月新学期説?

 突如として湧き出た話、9月新学期。新型コロナの影響で、9月新学期に制度移行するのは、時間と資源とエネルギーの無駄である。

 恐らく若い人達には分からないだろう。通年授業が普通だった大学業界において「セメスター制」革命が吹き荒れたのは1990年代終盤。これとてその本質は「諸外国が…」という同調圧力に過ぎなかったのだが、それが「短期間で集中的に学修した方が…」という美辞麗句にほだされて今や普通のカリキュラム・システムになっている。一部の大学で実施されている「クォータ制」も事の本質は同じである。その反面、カリキュラム・システムの変更が学ぶ者の学力にどう影響するのか、この点について体系的に調査・研究された事実は、皆無に等しいと言っていいだろう。何でもそうだが、大幅なシステム変更を画策するのであれば、そのことによって分析対象が大幅に良化することを証明しなければならない。9月新学期を本気で検討するなら、コロナ対応とは別の基準で検討する必要がある。

 前置きが長くなったが、今般の事情で遠隔授業を中心に行われるようになった。事情が事情だけに仕方ない部分はある反面、これまで遠隔授業を実際にやってみた実感としては対面授業と遠隔授業、両者で学力面での有意差は「確認されない」だろうということである。遠隔でミニッツペーパーもどきの作成課題を学生に与えたのだが、それを実際に採点してみて、対面でやっても大差ないだろうというのがその感覚的根拠である。ちょっとしたことであるが、ある程度の文量を書かせる課題において、資料等からそのまま抜き出すだけのものと自分なりに考えて自分の言葉で書こうとするのとでは雲泥の差がある。そして、自分の言葉でまとめようと苦闘する学生ほど追加情報に敏感である。おそらくだが、追加情報に敏感な学生は対面授業でも敏感に反応する。鈍感な者は何をやっても鈍感なものである。少なくともボリュームゾーンにとって、遠隔授業による学力低下という悪影響を受けることは少ないだろうから、これを理由に新学期を9月に移行したところで(学力で見た)状況の本質は変わらないだろう。

 無論、反論もあるだろう。そのいい例として、アクティブラーニングで学力が上がったという事例報告は数多あるが、そのほぼ全てが偏差値の高い所謂上位校の為せる業であるという事実はあまり知られていない。それを真似た所で意味は皆無、われわれが中心に据えるボリュームゾーンの若者には有効に機能しないだろう。

 学期をずらすことは時間のタイミングをずらすだけのことだから、教科内容が不変である限り、9月新学期という制度変更は事の本質を大きく変えないだろう。むしろ、制度を定着させるまでに投入された有形無形のコストをその後の定着で回収できる保証はない。このコスト増が大学経営を圧迫させる事になる。そう考えるとき、9月新学期説は大学大粛清の幕開けなのかもしれない。

 それを避けたいのなら、早急に(段階的にせよ)対面授業を復活させる方策を模索することである。これが私立学校の経営状況にとっても、教職員および学生のメンタルヘルスにとっても最善の方策である。

(中村 勝之)

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新型コロナで帰省できなくなった学生に“仕送り

 新潟県燕市は政府が緊急事態宣言を発令した7都道府県からの帰省を自粛している学生を応援しようと地元の有志と協力し地元産コシヒカリや食品を無料で贈るサービスを始めた。提供するのはコシヒカリ5キロ、きゅうり、みそ、漬物、市提供の布製マスクなど計6点。燕市出身で7都道府県に住む18〜30歳の学生が対象、市が4月10日に発表するとツイッターなどで話題になり、13日午前までに170件を超える応募があった。
 燕市は発令区域との往来自粛を呼びかけていたところ、市民から「かわいそうだ。何かしてあげたい」と声が上がり、支援の動きが始まったとのこと。市民有志がお金を集め、農家からコメを買い上げて市に寄付。きゅうり、みそ、漬物は農家が提供、送料とマスク代は市が負担。同市産のコシヒカリは減農薬で「県特別栽培農産物」に認証され、もちもちして冷めても甘いという。鈴木力市長も農場で荷造りに参加、市長は「古里はいつでも帰れる温かいところ。帰省の自粛を頼むのもつらいが、言われた学生もつらいと思う」と述べた。市民有志の一人でもある農家の男性は「身土不二という言葉もある。少しくらい笑顔になってもらえれば」と話した。(毎日新聞2020年4月14日より

 市からの“仕送り”に添えられた市長のメッセージ『燕市への帰省を自粛している学生の皆さんへ』を紹介。「燕市では、5月6日までの間、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、緊急事態宣言が発令された区域から燕市への往来について自粛をお願いしています。さびしく不安な気持ちでいっぱいな皆さんに対しても、ふるさと燕市へ帰省しないでほしいとお願いすることになってしまい。大変申し訳なく思っています。そんなとき、私と同じように皆さんのことを心配する市内事業者の方々から、せめて、お米だけでも届けてあげたいという声をいただきました。とても素晴らしい取り組みだと思い。すぐに実行することとしました。燕市で収穫されたコシヒカリ5キロと手作りの布製マスク1枚を手配していたところ、支援の輪がどんどん広がり、味噌や漬物もお届けできることになりました。おいしいご飯をモリモリ食べて、少しでも元気を出してほしいと思います。燕市はいつでも皆さんを応援しています。新型コロナウイルスに負けることなく、この難局を乗り越えられるよう、一緒に頑張りましょう。令和2年4月 燕市長 鈴木力

 京都大学の山中伸弥教授は『新型コロナウイルス情報発信』にて「新型コロナウイルスに対する対策は微妙な手綱さばきが求められます。緩めすぎると感染者の急増と医療崩壊を招きます。締めすぎると、休業自粛をお願いしている方々の生活が崩壊し、また抗体を持つ人の数がなかなか増えないため、第3波、第4波に対して脆弱になります。」と述べている。次号発刊時には大学再開を願って・・・。

(宮本 輝)

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2020年04月02日

不測(不足)の事態にこそ

 人類の歴史は経済活動の拡大に伴う地域間交流と不測の事態との戦いの歴史でもある。不測な事態の代表的なものは戦争であるが、感染症も不測の事態をもたらす。まさに今の状況は人類がこれまで格闘してきた感染症との戦いの再現であるともいえる。

 感染症とは直接関係はないが、こうした経済システムにおける不測の事態に陥った際に持ち出される2人の偉大な学者、それがJ.M.ケインズとJ.A.シュンペーターである。ケインズについては以前話させてもらったが、ここでは再登場してもらおう。

 ケインズ登場以前の経済学の世界では、(短期的には)すべての市場、とりわけ労働市場が需給変化に対してスムーズに調整される状況が前提されていた。1929年に起こった「世界恐慌」においても同様のスタンスであった。これは歴史が証明する事であったが、当時の経済学者が想定してた市場の調整機能は働かなかった。ここで詳細を語るのは避けるが、ケインズは労働市場が需給調整を帰納しない世界を想定したときに何が起こるのかを明らかにした。そして、不測の事態の招来に際して政府の財政出動が極めて重要であることを明らかにした。

 いま、現政権が今般の事情に際して生活に困窮する個人や中小事業者を対象に現金給付を議論している。ここで重要な論点は、対象とする個人・事業主を何らかの基準で区別するか否かである。感情論的にはそこまで困窮していない人々にまで支給対象とすることに反対する論調があるが、ケインズの着想で言えば、支給対象を区分しても全員一律支給としても、結果は変わらない。たとえば、100の人口を抱える国があって、何らかの事情で生活に困窮事態に陥ったとする。このとき、政府が総額100だけの現金を所得補償として給付する状況を考える。もし全員に一律支給すると、一人当たり1だけの現金が支給される一方、事情を精査して10だけの人口を選べば彼らに10だけの現金を支給することになる。いずれの場合も人々が支給された現金のうち60%を実際の生活維持に充当したとすると、一律支給も選択支給も60だけの消費が増えることになる。この消費増加が巡り巡れば、結果的に国全体で150の所得が増える計算になる。誰に給付しようが総額が変化しない限り結果は一切変わらない。これはマクロ経済学の教科書でいう「乗数効果」の教える所である。

 ただし、現金給付という財政出動はそのきっかけに過ぎない。それをもらった瞬間にどう使うのかが問題となる。「将来のために残しておこう」では何にもならない。ケインズが今も生きているのなら、「誰が給付をもらおうと問題ではない。もらった給付はどんどん使え!」と叫んでいるだろう。

(中村 勝之)

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「自分」株式会社

 日本経済新聞(2020年3月31日)「大機小機」にて新型コロナウイルス流行の影響による入社式の中止や延期、自宅待機となった新入社員へ向けて、カナダ・ヨーク大学のモシェ・ミレブスキー教授が「人生100年時代の資産管理術」という本で表した言葉を紹介している。

 一人ひとりが「自分」株式会社の最高経営責任者(CEO)兼最高財務責任者(CFO)として、その企業価値を最大化していきなさい―とミレブスキー氏は教える。就職で文字通り「親」会社から独立し、結婚を機に「合併」。節目のライフイベントでは、配偶者や子どもなど様々な利害関係者も「役員会」での発言を求めてくる。どうさばくかはCEO兼CFOの腕次第。「自分」株式会社に込められた意味は、生涯にわたる長期の視野を持ち、経済的に自律(自立にも通じる)して生きることの大切さ。今その意識を強く持つよう勧めるのは、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な流行)がいずれ去った後、世界経済も個人の価値観も大きく変質しているからである。

 極端に落ち込んだ景気を支えるため、各国の政府は未曾有の経済対策を次々に打ち出している。難局を乗り切るため不可欠な財政支出ではあるが、コロナ禍が収まった後に残る膨大な借金をどうするのか。答えはまだない。これと別に、パンデミックのなか一気に普及した遠隔勤務も、働き方を不可逆的に変える可能性がある。経済的にも働き方の面でもより自律した個が求められ、それが「コロナ後」の世界観であると説く。最後に「自分」株式会社の資産を増やすには、自分という人的資本に投資を続けながら、リスクをコントロールし賢くお金を増やしていくことが大切である。最良のCEO兼CFOを目指し、まずは学ぶことから始めようとエールを送った。

 ノーベル医学生理学賞の山中伸弥・京都大教授は、13日開設されたホームページ「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」にて「新型コロナウイルスとの闘いは短距離走ではありません。1年は続く可能性のある長いマラソンです」「ウイルスとの闘いは、有効なワクチンや治療薬が開発されるまで手を抜くことなく続ける必要があります。(中略)社会崩壊も、医療崩壊も起こらない形で、(新しい現実を)ゆっくりと受け入れる必要があります」と述べている。新しい現実を受け入れる4月のスタートとなった。

(宮本 輝)

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